【現地取材】228事件70年と台南の英雄・湯徳章

【現地取材】228事件70年と台南の英雄・湯徳章

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           ワイズメディア編集長 吉川直矢

 今年の2月28日は1947年の228事件から70年の節目となり、各地で行われた記念行事には大勢の市民が集った。

 台南市では、まだ戒厳令が続いていた1987年に、民主活動家の鄭南榕氏らによって事件の真相解明を求める戦後初のデモが行われており、それから30周年でもあった。当時、彼らの勇気ある行動は大きな反響を呼び、真相究明と被害者の名誉回復を求める世論を形成する役割を果たした。鄭氏の母校である成功大学の学生会は、その精神を受け継ごうと、1987年と同じルートを歩くデモを実行。大学生や市民ら500人が、当時と同じ「228和平日」と書かれた緑色の円形プラカードを持って行進した。

 成功大の責任者を務めた大学院生、呉馨如さんは「台湾人の歴史を受け継ぎたいと考えた。歴史の傷を忘れずに、若者たちで台湾の未来を開いていきたい」と語った。デモの終着点に選んだのは市中心部にある湯徳章紀念公園。台南にとって228事件を象徴する場所だ。

台湾人の人権確立志す

 今年の228事件70年では、事件の際に多くの台南の人々の命を救った、日台混血の弁護士、湯徳章(日本名・坂井徳章、1907〜1947)の存在が日本人に知られ始めている。それは、ノンフィクション作家・門田隆将氏が昨年12月に湯徳章の一生を描いた『汝、ふたつの祖国に殉ず』(角川書店)を発表し、多くの読者に深い感動を与えているためだ。

 湯徳章は、熊本県出身で日本統治時代前期に台湾で警察官を務めた父と台湾人の母の間に、現在の台南市玉井区で生まれた。父は1915年に起きた抗日武装蜂起事件、西来庵事件で殉職し、母の手一つで、貧しい暮らしの中で成長していった。

 徳章は師範学校を中退後、父の後を追って警察官となる。そこで台湾人差別の現実を体験し、台湾人の人権確立のために働きたいと志すようになり、一念発起して警察を退職して東京に留学。小学校卒業のみの学歴ながら猛勉強に猛勉強を重ねて、現在の国家公務員一種に当たる高等文官試験の司法科と行政科に合格する快挙を成し遂げた。

 日本の中枢で働けるエリートコースへの切符を手に入れたものの、あくまでも台湾人の人権のために働く意志は固く、1943年夏、台南に戻り弁護士事務所を開設する。社会的弱者の立場に立つ弁護士として評判になった。

「台湾人バンザーイ」

 やがて日本が敗戦を迎え、台湾は中華民国に領有される。当初は祖国復帰を歓迎した台湾の民衆も、国民党の圧政と腐敗に不満を募らせ、それが1947年2月、民衆蜂起の形で噴出する。228事件である。

 台南市でも各地の動きに呼応して、武器を手に戦おうという学生グループが出現した。ただ、国民党軍が大陸から派遣されれば鎮圧されると読んでいた徳章は、台南工学院(現・成功大学)に乗り込み説得。学生たちから武器を取り上げ、当局に差し出した。しかし、既に市の名士となっていたため当局から「事件の首謀者の日本人」として目を付けられ、国民党軍が高雄に上陸するや、たちまち捕らえられてしまう。

 逆さ吊りにされて、銃床で激しく打ち付けられる拷問を受け、武器提供者の名前を自白するよう迫られる。しかし徳章は、肋骨が折られても、学生たちの命を危険にさらさないよう、最後まで1人の名前も出さなかった。処刑が決まり、市中心部の民生緑園に連れていかれた際、周囲の人々に「犠牲になるのであれば私一人で十分だ」と台湾語で語りかけ、最後に日本語で「台湾人バンザーイ」と叫んだ後、銃弾3発を受けて斃れた。

 現在、湯徳章は自らが犠牲になって多くの台南の人々の命を助けた英雄とされている。学生たちだけでなく、一般市民の蜂起も断念させており、この努力のおかげで台南は228事件による犠牲者が少なくて済んだのだ。処刑が行われた民生緑園は1998年、当時の張燦鍙市長によって「湯徳章紀念公園」と改称され、徳章の胸像が処刑された場所に建てられた。2014年には命日の3月13日が頼清徳現市長によって市の「正義と勇気の日」に制定された。

「心が震える人生」

 門田氏は27日と28日に、台北市と台南市で228事件70年の記念講演を行った。台北市では120人規模の会場に多くの立ち見者が出るほどの盛況だった。門田氏は「湯徳章は台湾人の人権確立に生涯をかけた信念の人です。彼の人生を追っているうちに、心が震えて感動で何度も涙が出そうになりました」と話した。処刑の場面を語った際は、筆者の周囲では目頭を拭う人が何人もいた。

 徳章がなぜ最後に日本語で叫んだのか、著作の中でもこのことが謎として描かれているが、現在どう考えているか質問してみた。門田氏は「日本人として処刑されているわけで、日本人として全ての罪をかぶって台湾の人々を救うことができた満足感があったためではないかと推測するが、分からない」との答えだった。

記念展が開催

 台南愛国婦人会館では、「乱世英魂」と題して湯徳章の記念展が3月5日まで開かれている。幼少期から弁護士となるまでの写真や新聞記事、林百貨で購入して使った弁護士事務所の机など関連資料60数点が展示されており、多くの市民が参観して「台湾精神、後世の誇り」、「台南の恩人」といった言葉を書き残していた。

 湯徳章の事績は台湾の学校では教えられていない。同世代以下の台南市民に、いつどのように湯徳章のことを知ったのかを聞いてみたところ、「小さい頃は知らなかった」「大人になってから知った」という答えが意外に多かった。国民党独裁が長く続いた影響で、家庭でも政治的に敏感な人物のことは話すのがはばかられたのだろう。

 1970年生まれという公務員の女性は、「民生緑園が湯徳章紀念公園に改称されたときに知った」と語った。市は2年前に湯徳章の旧宅も復元しており、行政の努力が湯徳章の知名度向上に貢献しているようだ。

頼市長、「非常に意義深い」

 学生らのデモ隊が湯徳章紀念公園に到着し、70年の記念式典が行われた後、頼市長に話を聞いた。頼市長は「日本と台湾に深い関心を持っていた湯徳章のことが日本人にも知られ始めたのは非常に意義深く、門田先生にとても感謝しています。70年の間、台南の人々は彼をしのび、名誉を回復させたいと思っていました」と語った。

 筆者が取材したある女性の市民は、「3月13日は『正義と勇気の日』ではなく、『湯徳章記念日』という名称がふさわしい」と語っていた。この意見について訊ねると頼市長は、「正義と勇気という名称によってこそ、人々は彼の精神を知ることができる。その精神を記念することこそが最も高い水準の記念なのだ」と確信に満ちた表情で答えた。

 大和魂の持ち主を自任した信念の人、湯徳章。彼の名前は愛した郷土、台南に永久に残ることだろう。かつてこのような人物がいたことを、台湾を訪れる日本人に1人でも多く知ってもらいたい。

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