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【台湾紀行】台湾古道シリーズ―淡蘭古道(上)

【台湾紀行】台湾古道シリーズ―淡蘭古道(上)

作者: 西 豊穣

<「淡蘭」について>
「淡蘭」と書けば、現在の新北市淡水区と宜蘭市の頭と
尾の合成語のような印象を受けるかもしれないが、正確
には清代の行政区画であった淡水庁と噶瑪蘭庁の頭
尾である。淡水庁が設置されたのは雍正年間(1723〜
1735年)で、当時は、現在の台北市、桃園県、新竹県、
苗栗県を抱合する広大な行政区画であった。他方、
噶瑪蘭庁の設置は嘉慶年間(1796〜1820年)、現在
の宜蘭県の蘇澳以北に相当する地域であった。当時の淡
水庁の中心地は[舟孟][舟甲]。これは、「丸木舟」を意
味する平埔族ケタガラン族語の「ヴァンカア」の漢字表
記。台湾語ではバンカと読む。2010年に封切られた台湾
映画の題名にもなり、同映画の邦題『モンガに散る』の
「モンガ」もこの地名を指している。現在の行政区画で
は台北市万華(註1)区に相当、嘗て「一府二鹿三[舟孟] [舟甲]」と謳われたように、台南府城(台南市)、鹿港
(彰化県鹿港鎮)と共に清代台湾の三大都市の一つとし
て隆盛を極めた。つまり「古台北」である。

淡蘭古道とは、この古台北地区と台湾東海岸で最も早期
から開発された蘭陽渓下流域の平野部との間に開鑿され
た交易道・軍用道を指す。これが淡蘭古道の原初形態で
あり、「官道」(正規道路)を形成した。今現在は殆ど
が自動車道に取って変わられ、当時の風貌を留めた僅か
に三本の古道が残っているに過ぎない。今回の投稿では
まずこれらオリジナルの淡蘭古道三本を紹介する。当時、
重い荷を背負って台北を発し複数の嶺を越えて漸く太平
洋を見渡す所まで来た人々の眼にまず飛び込んできたも
の ― 宜蘭沖約10キロに浮かぶ亀山島 ― にも同時
に言及する。

筆者はこれらオリジナルの古道を狭義の淡蘭古道と呼ぶ
ことにしている。というのは、台北地区と蘭陽平野を結
ぶ雪山山脈越えの「間道」は夥しく開鑿されてきたから
だ。それらの利便性は、今現在大きく三本の自動車道、
即ち、北から国道5号線=「雪山隧道」を含む通称「蒋
渭水高速公路」、省道9号線=通称「北宜公路」、省道
7号線=通称「北部横貫公路」(註2)に集約されている
が、山中にはまだハイカーに歩かれている間道が少なか
らず残存している。次回の投稿『淡蘭古道(下)』では、
それらの中から三本を選び紹介する予定である。

<淡蘭古道のメイン・コース>
台北地区を発した人々は基隆河(註3)を八猪(基隆市)、
或いは暖暖(基隆市)まで遡行し一泊。翌日、更に基隆
河沿いに東進。瑞芳(新北市)、侯[石同](新北市)を
経て三貂嶺に辿り着き(三貂嶺古道)、そこを越えて、
牡丹(新北市)、双渓(新北市)まで降りて二泊目。さ
らに貢寮(新北市)まで南下。そこから僅かに東進し福
隆(新北市)まで出て、更に隆嶺越え(隆嶺古道)で太
平洋岸の石城(宜蘭県頭城鎮)に降りて大里(宜蘭県頭
城鎮)に至るか、草嶺越え(草嶺古道)で大里に直接降
り、後は海岸沿いに南下。頭城、宜蘭へと蘭陽平野の中
心部を目指した。ざっと100キロ程度になる。

現在歩かれている三本の古道は、一般のハイカーでも楽
に短時間で歩き通せる長さと勾配を有しており、しかも
台北地区からであれば日帰りで十分だ。沿線の自然景観
は申し分なく、清代から日本時代に掛けての遺跡も豊富
に残存している。

<三貂嶺古道>
侯[石同]小学校脇を暫く辿った場所に登山口を持つ三貂
嶺古道は登り一方だが、今に残る古道の延長は僅かに1
キロ程度、一時間もあれば最高点である海抜500メート
ル越えの三貂嶺、双渓−牡丹−九份(新北市)−瑞
芳を結ぶ(旧台北)県道102号線に出会う。つまり、今
はこの自動車道に取って替わられたわけだ。

三貂嶺古道の途中には、同治六年(1867年)の銘のある
台湾鎮総兵(註4)劉明燈作詩・揮毫の篆(てん)書体
に依る「金字碑」がある。自然石上に高さ約2.5メート
ル、幅約1.5メートルの額を削り出し、嘗ては金箔が貼
られていたらしく、同古道は金字碑古道とも呼ばれる。
三貂嶺に至り眼前に開けた基隆・東北角海岸の風景を詠
じ、同時に当時の清朝を取り巻く国際情勢(註5)に思
いを馳せた七言律詩で、この段が軍事道の性格も有して
いたことを物語る。又、古道を登り切った場所は、涼亭
が設けられた休憩所になっているが、咸豊元年(1851年)
の銘がある、旅行者・商人に付近の山域の樹木の乱伐採
を禁じる旨を通告した「奉憲示禁」碑もある。

ところで、「三貂」の台湾語発音は「サム・ティアオ」、
中国語では「サン・ディアオ」、スペイン語・ポルトガ
ル語の“St. Diego”「サン・ディエゴ」(註6)が語源、
台湾にはこのようなヨーロッパ語起源の地名が少なから
ず存在するが、その一例である。

<隆嶺古道>
隆嶺(註7)古道の位置に関し最も判り易い説明は、台
湾鉄道宜蘭線福隆駅と石城駅との間を結ぶ旧草嶺隧道(註8)
越えの山道、と云うものだろう。この古道下を、大正
十三年(1924年)、三年の長きを掛け、その間、日本人・
台湾人合計三百七十余名の犠牲者(死者11人、負傷者
366名)を出しながら完工させた当時台湾で最長のトン
ネルが貫いているからだ。この古道の場合、鉄道に取っ
て替わられた事例である。

1986年、複線化に伴い退役、爾来二十年以上もトンネ
ルの出入口は煉瓦で封じられ放置されてきたが、2008
年、東北角[既/旦]宜蘭海岸国家風景区管理処と台湾鉄
路局とが共同で、この旧トンネルをサイクリング・ロー
ド化(註9)、加えて遊楽客向け施設も付設し一般に開
放した。トンネル長は二キロ強なので、片道10分足ら
ずでトンネルの両端を往復出来る。週末・休日以外は
トンネル内の歩行もOKだ。

旧トンネルの北側、福隆駅側入口上部には「制天嶮」
(天険を制する)、南側、石城駅側には「白雲飛處」
(白雲の飛ぶ処)の共に草書体のレリーフが懸かる。
前者が当時の台湾総督府鉄道部部長・新元鹿之助、後
者は同府総務長官・賀来佐賀太郎揮毫に依るものだが、
日本人にしろ台湾人にしろ現代人には達筆過ぎて最早
判読不能(註10)だ。もう一つ、北側入口付近には、
「故吉次茂七郎紀念碑」が丁寧に保存されている。ト
ンネル完工の前年に病没、三十四歳で夭折した福岡県
出身の工事監督者の慰霊碑である。以上のように、こ
の地は日本時代縁(ゆかり)のもので埋め尽されてい
る。

隆嶺古道自体は、この旧トンネルの両出入口付近が起
点・終点を形成している。福隆側は暫く舗装された産
業道路を辿る必要があるが、指導標が殆ど無く容易に
迷ってしまい、実際の山道に入るまで難儀するのが難
点である。海抜凡そ250メートルの古道最高点に出た
ら、後は太平洋を正面に一気に石城まで急降下である。
古道自体は、全長3.5 キロ程度、約三時間の行程であ
る。旧トンネルを利用すれば、南北どちら側から出発
しても楽に且つ安全に元の出発点に戻って来れるので、
自然景観+清代−日本時代人文景観満喫の完全一周の
ハイキングになる。今やサイクリング・ロードたる旧
トンネルは、山歩きは苦手という人にも格好な日本時
代探訪の場を提供している。

<草嶺古道>
海 ― 太平洋 と 山 ― 雪山山脈北端。両方の
たおやかな自然景観を同時に堪能出来るロケーション、
前述の台湾鎮総兵劉明燈揮毫の二基の石碑に代表され
る古道沿線の豊かな人文景観群、一般の遊楽客にもさ
ほど苦にならない勾配と全長、管理と整備の行き届い
た古道路線、大台北地区からの交通の利便さと古道出
入口へのアクセスの良さ、大規模なビジター・センター
の存在等の諸点から、草嶺古道は台湾を代表する古道
である。忙しい日本人から台湾古道を手軽に理解する
為の一本を選んで下さいと尋ねられれば、筆者は迷う
事無くこの草嶺古道を紹介する。日本時代の地形図を
見ると、台北地区から太平洋岸へ辿る最後の段は、こ
の現在草嶺古道と称される段が正に「幹線」道路であっ
たことが判る。前述の旧草嶺トンネル開通後はこれに
宜蘭線鉄道が加わった。

現在の草嶺古道は、北側は台湾鉄道宜蘭線福隆駅、南
側は大里駅が起点になるが、台北地区から基隆を経て
海岸沿いに走る省道2号線(通称「北部浜海公路」)脇
にある大里駅の向かい側に、広い駐車場を擁するビジ
ター・センター(註11)があり、このビジター・セン
ターそのものが、草嶺古道散策の遊楽客を対象にした
ものであり、且つ古道南側起点になっているので便利
である。北側の実際の古道起点は福隆駅そのものでは
なく、三キロ程度離れた場所に設けられた駐車場付き
の親水公園であり、この間は車を利用するか、歩くし
かない。時間、或いは体力の関係で古道全延長の往復
を厭うのであれば、下山後は両駅間を電車かタクシー
で移動するのが適当である。

古道起点を大里−福隆両駅間とすると、その間は10キ
ロ弱、北側からでも南側からでも四時間程度で歩き通
せてしまう。古道は丁度新北市と宜蘭県の境界を形成
する雪山山脈最北端の嶺々を乗り越す形になり、古道
最高点(峠・鞍部)の標高は375メートル、大里ビジ
ター・センターからだと約3キロ、一時間前後の登り
一方、つまり、大里―最高点間の方が、最高点−福隆
間より遥かに勾配がきついが、この間は亀山島を含む
宜蘭県東側の海岸線並びに太平洋の素晴らしい眺望を
背負いながらの登山になるので、疲れも吹き飛ぶ。し
かも、冬場に太平洋から吹き付ける強烈な季節風が植
生に劣悪な特殊環境を創り出している関係で、これら
の嶺々は全く見事としか言いようの無いススキ(芒・
薄)(註12)の絨毯に覆われ特異な景観を呈している。
これが「草嶺」の由来であり、毎年十一月一ヶ月間は
国家風景区管理処主催でススキ・フェスティバル(註13)
が開催されている。最高点を越えてしまえば、北側起
点までは下り一方で、最後は、山間(やまあい)に切
り開かれた水田を中心とする遠望坑(新北市貢寮區)
という村に出る。日本ではとうに失われた、大台北の
近くにも拘わらず丸で過去より時間が止まったままか
と見紛う農村風景が広がる。

草嶺古道の人文景観を代表するものが、先に触れた劉
明燈揮毫の二基の石碑である。共に古道最高点−福隆
間の北側山腹上方に鎮座する。古道最高点近くにある
のが、「虎字碑」と呼ばれている草書体「虎」(註14)
一字の高さ1メートル半程の石碑、彼自身が草嶺を越
える時に暴風雨に遭遇、それを鎮める為に、ススキの
穂を筆にして現地で文字通り一気呵成に書き挙げたと
いう故事が残る。尚、この草嶺古道上の虎字は雌であ
る。雄は、今は坪林(新北市)にある茶業博物館構内
に現物が保存されている。又、これら番(つがい)の
石碑レプリカは大里ビジター・センターにも陳列され
ている。

虎字碑より更に一キロ程下ると、蟹の甲羅を想起させ
る巨大な自然石に「雄鎮蠻煙」(雄して蠻煙を鎮む)
の四文字が幅凡そ3メートル、高さ凡そ1メートルのス
ペースに楷書体で彫り込まれている。こちらは劉明燈
が当地で大いなる濃霧に遭遇、方向を見失い立ち往生、
「蠻煙」とはその霧に紛れ込んだ魔物、悪霊の意、そ
れらの退治を決したものだ。先に紹介した金字碑も含
め劉明燈揮毫の石碑三基は何れも同治六年の銘を持ち、
すべてが国家三級古蹟指定である。つまり、優れた書
家でもあったのだ。

<亀山島>
道光年間(1821〜1850年)に選定された「蘭陽八景」
の一つが「亀山朝日」、太平洋から昇る朝日と亀山島
の取り合わせの美しさを賞でたものだ。これは今も変
わらない。蘭陽平野から太平洋を望んだ時に、亀山島
の有無はその景観に大きな影響を及ぼすのではないか
と思える程にユニークな島影である。尾が西、つまり
本土側を向き頭が東を向いているので、何処から眺め
ても亀の形とはいかないが、緯度上は蘭陽平野の北端
になる頭城鎮中心部の真東沖合にあるので、少なくと
も宜蘭市を含む蘭陽平野中心部からは亀の形を楽しめ
る。いずれにしても、眺める場所に依り島影が大きく
変化するのも宜蘭の海岸線を移動する際の楽しみの一
つだ。

宜蘭県頭城鎮が所管する亀山島は、同島への唯一の渡
航港である烏石港(宜蘭県頭城鎮)から直線で約10キ
ロ、フェリーで四十分前後の距離にあり、海岸線総延
長約9キロの無人島である。亀山島側には亀の尾を形
成する長い砂州の南北両側に埠頭があるが、現在使わ
れているのは北側埠頭のみである。この両埠頭間、つ
まり島の西側であり台湾本土に面した側に嘗て村落が
存在した。無人島と云っても、実際は海岸巡防署安検
所所員や国家風景区管理処処員が詰めており、通常三
月初日から十一月末日まで上陸が許可されるシーズン
中は遊楽客がどっと押し寄せるので、通常の無人島と
いうイメージからは随分掛け離れている。一般人の居
住、商業活動が禁じられているという意味である。又、
海岸に温泉の湧き出ている箇所があり地理学的には休
火山島である。

清代末期から入植が始まり、日本時代は駐在所も設置。
戦後間も無く小学校も設立され、往時(1960年代)は
「150数戸、総人口759人」に至ったと現地の案内板に
謂う。1977年になり同島は軍事演習場に指定され、居
住民は対岸の大渓(宜蘭県頭城鎮)に強制移住させら
れたが、実際はそれ以前から特に台風の影響で生活は
困窮を極め、過疎化が進行していた。1988年戒厳令解
除後は、宜蘭県政府、頭城鎮鎮公所が中心となり亀山
島の観光開放運動を展開、台湾政府は2000年になり全
島を東北角[既/旦]宜蘭海岸国家風景区に指定、遊楽客
への全面開放を認可した。

現在、亀山島へ上陸する為には、書面(インターネッ
ト)に依る事前申請が義務付けられ、前述の上陸可能
期間に加え、毎日の上陸者数、遊楽活動可能場所にも
制限を設け、同島から石一個も持ち出させないような
徹底した自然生態維持管理(註15)が為されている。
亀山島の最高点は海抜398メートル、甲羅の真ん中であ
り、401高地(註16)と呼ばれている。筆者は断然この
最高点に登る積りでいた。ところが、401高地を含む島
嶼北側に設けられた遊歩道を散策する為には、少なく
とも上陸予定日の20日以前に申請する必要があるとフェ
リーに乗る前に教えられ非常に悔しい思いをした。一
般の遊楽客は上陸した後は、往時の廟、住居並びに学
校校舎がそっくり残る旧村落が面する湖―亀尾湖の周
囲に設けられた遊歩道と、同じく同湖に面するように
設けられた軍事地下壕に案内される。

亀山島での上陸活動が終わると、次は、亀山島一周ク
ルージング、刻々と形を変える豪快な島嶼全体の地形
と、汚染とは無縁な飛び切り綺麗な海水に洗われる海
岸線の変化は実に圧巻で、401高地への登頂を逸した無
念さは途端に吹き飛んだ。環島と呼ばれるクルージン
グが終わるとそのまま烏石港へ帰港、約三時間のツ
アー(註17)が完了した。(終り)

++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
(註1)大正9年(1920年)台湾総督府は[舟孟][舟甲] を「萬華」に改名した。

(註2)「省道」とは本来は「国道」と称すべきものだ
が、行政院交通部は未だに変更していないので現在の
呼称に従った。現在の台湾で「国道」とは高速公路(道
路)に対する呼称である。

(註3)基隆河は、淡水河の主要支流。源頭は新北市平
渓区の分水嶺。台湾では通常河川名は「渓」で表される
が、基隆河、淡水河は珍しい例。尚、淡水河は流域面積、
総延長とも台湾第三の河川、源頭は雪山山脈品田山(台
湾百岳第24座)。

(註4)正式には福建台湾鎮は清代台湾の最上位軍事機
関。「総兵」はその長官。

(註5)直接的には、石碑の銘と同年1867年に発生、劉
明燈自身も関った米国籍商船「ローバー号事件」を指し
ているそうだ。この事件は、アメリカ版牡丹社事件と云
えるもので、同船は同年に恒春半島最南端で座礁、沈没。
上陸後船長以下12人が原住民に殺害された事件である。
牡丹社事件の発生はこの4年後である。ローバー号事件
の際、事件処理に奔走したのは、アモイのアメリカ領事
チャールズ・ルジャンドルで、彼は後に明治政府に外交・
軍事顧問として雇用され、牡丹社事件後の外交処理に対
するアドバイスを行った。この間、副島種臣に随行し北
京にも出向いている。勲二等旭日重光章を授与された最
初の外国人でもある。最後はソウルで客死、墓もソウル
にある。

(註6)日本人には米国カリフォルニア州の同名南部都
市が良く知られているが、世界中には多分無数に近い程
に同名地名があるはず。

(註7)「隆」は、やま・かんむり付きでも表記される
ケースが多いが、本投稿では「隆」で統一した。

(註8)正確には、台湾鉄路管理局東部幹線宜蘭線福隆
車站と石城車站。

(註9)正式名称は「旧草嶺隧道自行車道」。

(註10)「白雲飛處」の最初の字は「白」か?或いは
「國(国)」か?は台湾では随分長い間論争されてきた
が、2011年暮れになり当時の行政部交通部部長に依って
「白」と裁定された。

(註11)正式名称は「大里遊客服務中心」。

(註12)台湾では「白背芒」と呼ばれ台湾北部の中低山
岳地帯の植生が典型。陽明山国家公園一帯のススキ群も
同様である。正式和名は筆者では特定出来ず。

(註13)正式イベント名は「草嶺古道芒花季登山活動」。

(註14)出典は『易経』の「雲従龍、風従虎」(雲は龍
に従い、風は虎に従う)。

(註15)例えば、上陸最大人数は平日午前300名、午後
100名、週末午前300名、午後200名、団体遊楽客数の最大
数は45人以下。。。という具合である。

(註16)頂上展望所の高さが3メートルだから、398+3=
401という説明を台湾ではよく聞かされるが、真偽の程は
筆者は未確認。というのは日本時代の地形図では401メー
トルの測量になっているからだ。亀山島に関しよく聞か
される別の故事は、日本時代、南洋戦線の日本軍の毒蛇
用血清の需要に応える為に、この島には毒蛇研究所が設
置され多くの毒蛇が飼育されていたが、日本が台湾を放
棄すると同時に、これらの毒蛇を野に放してしまったの
で今でも亀山島は毒蛇(百歩蛇のことか?)が多い―と
いうものだ。これも筆者自身は未確認の為、本文記事に
掲載するのを躊躇した。尤も、島内に毒蛇注意の警告板
があるのは筆者自身確認しているし、コンクリートで形
成された地下壕の入口にも同警告板があったのには驚い
た。

(註17)亀山島ツアーは基本は四種類;A)筆者が体験し
た島嶼上陸+環島、B)上陸+環島+賞鯨と呼ばれるクジ
ラ・イルカ・ウオッチングを組み合わせたツアー、C) 環
島+賞鯨、D) 環島のみ。豪華版のBコースでも約四時間
で烏石港に戻って来る。

西豊穣 ブログ「台湾古道~台湾の原風景を求めて」
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