_塚本三郎元民社党委員長小論集_ _当会支部最高顧問、塚本先生世評_

忌わしき年よさらば     平成二十三年 元旦     塚本三郎             

混乱と迷走の一年。振り返れば、これが日本政界及び経済界の昨年一年間であった。

 平成二十一年夏の「政権交代」は、国民の大きな期待と希望の幕明けと期待したのに、民主党政権の一年余は、鳩山内閣も、菅内閣も失望の連続であった。

 民主党の菅政権は、鳩山政権以上に失政の連続で、その上、党内抗争まで加えて、新年を迎えることになり、昨年お届けした私のレポートは、誠に残念ながら、民主党政権に対する、非難と警鐘の連続になってしまった。

 菅総理が「脱小沢、反小沢」と叫んで支持率の多少を伸ばしても、民主党をして、今日ある政権交代の最大の功労者小沢氏に、一片の敬意も表さず、罪人扱いしている、「節度なき菅総理」に、人心は、日と共に離れざるを得ないのも一因である。

 民主党国会議員の中には、かつて私と一緒に活動し、国家の発展と平和、及び幸福拡大の為に、政治生命を懸けた「旧民社党議員」が三十名余が未だ健在で居るのに。

 その人達は、今日の菅内閣の政治行動には、不信の念を抱いている人も多い。

それでも、その人達が、愛国の精神、愛党の精神を捨ててはいないと信じている。

しかし、彼等には、決断力と勇気があるのかと疑う日々であった。

民主政治は、議員に因る数こそが権力の根源ですから、多数を得るまで、そして時の来

るまでと、彼等は自重しているのかもしれない。

 だが、民主政治は世論の政治でもあるから、少数であっても、ただ一人であっても、堂々と正論を叫ぶことが、局面打開のために必要ではないか。自分の信念を述べることこそ国民の代表としての権利であり、責任であることは論ずるまでも無い。それを避けるのは卑怯の徒とならざるを得ない。

 二十年前までの旧民社党は、少数野党であり、自民党からも、日本社会党からも、仲間外れとされたことは度々であった。それでも国家の大事には、特に、外交、防衛については、率先して発言し、行動を起こして来た。今日では、当時の民社党がなくなったことを、惜しがられ、語り草となっている。未だ旧民社党の魂は生きていると形で示して欲しい。

菅総理の本気度を問う

 支持率の低迷を気にして、菅総理は漸く二つの重大事を決意した。

 その一つは、小沢一郎氏に対する処遇である。総理が直接小沢氏と会って、衆議院政治倫理審査会への招致を説得したが決裂した。総理が本気で招致を目指すならば、出席が義務づけられている「証人喚問」しかない。その場で小沢氏は堂々と所信を述べるべきである。それが本人のため、のためでもある。

総理が党分裂を危惧するよりも、国政進展と清浄化の本気度が示される。

クリーンな政治の実現が国民の強い要望であるし、私自身の政治活動の原点と、所信表明演説で語ったはずではないか。

 その二は、新防衛大綱と中期防衛整備計画である。

 総理は東シナ海に面した南西地域と、その島しょ部の防衛強化を柱に据えた。南西地域の島しょ部に、陸上自衛隊の沿岸監視隊の配置を決め、有事の際には、初動対応のできる実戦部隊を置くとしている。勿論、中国の侵攻に備えてのこととみるべきだ。

 今日までの菅総理としては、かつてない大きな決断である。そして国家の置かれた実状を睨んでの対応と評価する。今度は本気で取り組むべきだ。

 心配なことは、菅総理の今日までの度々の発言は、殆どが思いつきの人気取りが主であった。実現の裏づけのないまま発言されるから、その直後に、内部から異論と混乱が出て、殆どが実現していない。余りにも軽々しい発言であった。今度こそ命運をかけるべきだ。

このままでは――「中国の属国になると」(日本時事評論)

 日本の大手テレビ局の外国人株主が、ほぼ中国資本で占められ、日本の水源地も買い占められている。東京などで行なわれた、反中国デモが、ほとんど、マスコミに報道されなかったのは、今の日本のメディアが、中国の悪い報道を控えているからだ。

 このままでは日本の水源地や、山林や、都市の一部が安く買いたたかれて、チベットのように、日本は中国の属国となってしまう。大手マスコミや大手企業は頼りにならない。と日本文化チャンネル桜の水島 総代表は述べている。

新年を迎え、気分一新――聖者の言を拾いあげ、反省の言とした

門松は冥土の旅の一里塚 楽しくも在り 楽しくも無し

 お正月に、男児がコマを廻し、女子が羽子板をついて遊ぶ晴れ姿に対して、一休禅師は、人間の生首をかついで廻り、新年の戒めの言葉を、姿と形で戒めたと伝えられえいる。

門松の松は、「慈悲の松」とたとえられる。春夏秋冬、相手(気候)によって、態度を変えない。それが人生の極意である。

 門松の竹は、人間万事、誠の心「真っ直ぐの心」で対処する。相手が曲がったことを言って来ても、まっすぐに受け止める、竹を割ったような正直が必要。

人生には種々の、「苦労」と呼ぶ節が在る。それは人生の節として、その苦難こそ更に成長する機会である。節ある毎に、人間は心身共に伸び生長するものと説く。

 門松のは「堪忍の梅」とたとえられる。寒い冬でも、正月一番に咲くため寒梅と呼ぶ。人生は、寒さ、苦しさに堪え忍んで美しい花を咲かせる。

 人間の特長は、他の生きものと異なり、欲や、怒りや、妬みを抑え堪え忍ぶ力をもつ。

 門松の松・竹・梅は飾り物ではない。仏教の教義を、まとめて判り易く解説すれば、

「慈悲・誠・堪忍」と教えられ、それを形に表したものとして、先人は松竹梅の生命力を見習い、毎年、一年の出発に際して、各人の家の門に飾って、自戒、教訓とした。

 これは一休禅師の人世観である。

極楽百年の修行は穢土(えど)一日の功徳に及ばず

 日本の現在は、汚れ切った、濁った社会となってしまった。それが末法である。

だが、汚れた社会であるからこそ、勇気をもって、神・仏に恥じない、正直で、清らかな生活を心掛けよう。自分だけは、社会の悪習に染まらない。それが本当の修行で、勇気を振って精進するその努力は、僅か一日であっても、その結果は、極く楽な百年の修行に優ると説かれていたのは日蓮上人である。そして

浄土と云い、穢土と云うも 土に二つの隔てなし

  ただ我等が心の善悪によると見えたり

 今日ほど楽しい時代はない、と受け止める人もあれば、こんな苦しい時代はないと嘆く人も少なくない。同じ所に、そして同じ時代に生きていても、正反対に受け止められるのは、所詮、それぞれの心の持ち方による。要は、「自身の心」を正直に、神・仏の教えに従った行動をしているか否かによる。これも日蓮上人の言である。

人間の「心掛けと行動」は、いつも人相に現れている

 相、性、体、力、作、因、縁、果、報、はすべて等しく一体として関係している

一生の姿、形を、まず顔が表現している。否、その瞬間毎に、その人の心と行動が

 顔(相)に連繋している。仏法では「十如是」の法と呼ぶ(法華経 方便品第二)。

人間は四十を越すと、だれでも自分の顔に責任を持たねばならぬ    リンカーン

人の一生は重荷を負うて遠き道を行くが如し、急ぐべからず

 不自由を常と思えば、困窮した時を思い出すべし

 堪忍は無事長久の基、怒りは敵と思へ                 徳川家康

 命も要らず、名も要らず、官位も要らぬ人は、始末に困るものなり

 この始末に困る人ならでは、艱難を共にして、国家の大事をなし得ざるものなり

 人を相手にせず、天を相手にせよ。天を相手にして己を尽し、人をとがめず、

 わが誠の足らざるを尋ぬべし                     西郷隆盛

 人は自分自身のために生きるより、他人のために生きるほうが満足が大きい―ヘッセ

 もともと地上には道はない。歩く人が多くなれば、「それが道になる」のだ―― 魯迅

 

 元来、不幸とか、不遇とかいっているものの大部分は、その原因をただすと、

人間がいかに怠けもので、自分の目的を知ろうとせず、たとえそれを知っても、

それに向かって、まじめに突進しようと努力の足りないところにある――トルストイ

美しい人には「草も花」となり、いじけた人には「花も草」となってしまう

心のあり方ひとつで、醜いものも美しく、反対に美しいものも醜くなる

男も、女も、自分の容姿について敏感である。大切なことは、自分のよい点を強調し

明るくふるまうことが大切である。        (フィンランドのことわざ)

人間には三種の人格を、それぞれ持っている。

第一は、石に字を刻んだような性格の人である。(いつまでも忘れない)

第二は、砂に字を書いたような性格の人である。(普通の人、すぐ書き、すぐ消える)

第三は、水の上で字や画を書いているような人である。(何事も気にしない)

自ら学んだこと、他人から云われたこと、受けた恩を、(いつまでも忘れない人)

悲しみや、憎しみと怒りや、妬みに対して、(反省するけれど、すぐ忘れる人)

それぞれ、どう受け止めるかによって、その人の幸、不幸が分かれる。――    釈迦


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