政権交代は天命 平成二十一年十月下旬 塚本三郎
見えざる手
八月三十日に行なわれた衆議院選挙のマニフェストは、自民党も民主党も、余り相違のない、大衆迎合の政策中心であった。
ただ自民党には負い目が在る。それは、公約の実行が不充分という。その上、政権を担当していても、権力に「シガミツイテ」離さない権力亡者、と有権者には映った。
麻生政権の約一年間は、国民の眼に映る「腹立たしさ」の連続が、今日の結果を招いた。
「天下のことは、成る様にしかならない」。それは、あきらめの言葉ではない。
大自然の運行は、人智、人力を超えた力が働く、と仏教では説いている。私はそれを信じている。もちろん人間と無関係だとは言わない。
人間の働き、そのものが逆に大自然の運行の舵をとっていることを否定するのではない。
それは、人智の赴くように動かし、動かされていることとは全く関係しない。深く洞察すれば、智慧や感情や欲望ではなく、「真心であり魂の力」であるかもしれない。
地球は有史以来、生成発展してきたと思う。純粋に働きかけた人間の力のみが、生成発展し、邪心に基づく行動を自滅せしめる。それが大自然の持つ偉大な力ではないか。
神と崇め、仏と称するのは、この「眼に見えない働き」と受け止めようではないか。それでなければ、地球は既に破滅し、崩れているはずである。
そんな立場で、日本の政権史上を達観してみると、民主党の大勝利も、自民党の惨敗も、神や仏の為すワザであると受け止めたら如何か。
その働きの一翼を担わされたのが、八月三十日に投票した有権者であるとみる。「自民党にお灸を据えてやれ」「自民党に対するうっぷん晴らし」「自民党でなければ誰でも良い。
こんな風潮を醸し出す為に、麻生首相が、漢字を読み間違えたとか、マンガより読まない、といったことを、大々的に報じた大多数のマスコミも、その神、仏のワザの手助けを重ねて来たと言いたい。
自民党が自滅したのであって、民主党が勝ったのではない。そんな政治論まで、大新聞が不敵にも社説で論じている。民主政治が育てられた戦後の政治史上では例のない、初めての大政変であった。どう考えても、人智では計り知れない大変革となった。
脱官僚の喜劇
天下の政(まつりごと)が、マニフェスト通りにゆけば、自民も民主もそんなに変化はないと言う人がいる。しかし、鳩山内閣は、マニフェストにない政策、即ちマニフェストからは、隠しておいた民主党独自の政策(インデックス)を、政権掌握後直ちに、而も不用意に持ち出しつつある。
それは、民主党にとっては、大切な独自の政策であるから、政権担当の過程で民主党らしく、地均しを行なって然る後、徐々に打ち出して来るものと思っていた。
ところが、今日まで行なって来た自民党政権下の政策を「ムダをはぶく」とか、「官僚政治の打破」という名目で、突然、廃止や、中止を宣言した。このようなことをすれば数々の国家事業は、現地で大混乱を招くことは必至である。
何がムダなのか。見る立場によって、必要不可欠が無駄に見えることも少なくない。「官僚による脱官僚」などは、お笑いごとになってしまう。
反対党が進めて来た国家的大事業にも、政策には歴史的に経過が在り、しかも、利害関係者が、集団として賛成、反対の立場を形成して今日に至っている。それ等を飛び越えて、大胆な政策を、臨時国会が招集される前に、民主党の各担当責任者が不用意に、次々と打ち上げた。
民主政治下における「政権交代」は政治革命ではない。
前者の行き過ぎを切り捨て、足らざるを補うことによって、前者の業績を、より良く完成せしめること。その上で、更に新しい政策を徐々に打ち上げて、国民の納得の上で、新しい時代を築くことではないか。
自民党が提案する重要法案には、今日まで反対を続けてきた民主党にとっては、我々が政権党になった以上、それを否定しなければ、道理に会わないと考えて、事業途中といえども反対し、中止または廃止すれば、民主党は「革新政党」ではなく、「革命政党」となり、民主政治ではなく、「全体主義」、数に因る暴力政治に堕ちる危険政党となる。
民主政治の下では七分三分か、六分四分で、与野党の政策が決まる。ゆえに、すべてが良く、すべてが悪いと決め付ければ、民主政治も政権交代も成り立たない。
言論の自由の下では、審判者は国民であることを忘れてはならない。
自民党は政権の審判者だ
自民党総裁に就任早々「自民党をぶっこわす」と宣言して、郵政の民営化に突きすすんだのは小泉純一郎元首相であった。
その猪突猛進が、自民党の大勝利となり、そのことが時を経て、本当に「自民党をぶっこわした」ことは驚きである。
その時に誰が今日を予想出来たのか。小泉純一郎に拍手を送った支持者、その者が、拍手通りに自民党を敗退せしめた。
しかも、いっときは衆議院で圧勝せしめ、その継ぎ役として、参議院で敗退の予告を行なって、今日の衆議院の大変革を実現せしめた。
崩壊すべき条件と段取りを重ねて、自民党は大崩壊したと言うべきだ。
九月二十八日に谷垣禎一氏が新総裁に選ばれた。新総裁は、政権の奪還を大声で叫んでいる。野に下った前政権党が、奪還を叫ぶのは当り前である。
だが、今日となってみれば、その筋道を違えておりはしないか。
政党の任務は、国家の繁栄と、自主独立を、そして平和を確保することではないか。政権は、その為の最短、最強の手段であるに過ぎない。
自民党敗北の主因は、「目的と手段」を取り違えていたからではないか、そして、その誤りを今も尚、悟ろうとしていないようにみえて仕方がない。
自民党は政権を失っただけではない。政権の基盤である衆議院の議席を、絶望的に失ったのである。一時の野党暮らしでは許されないまでの敗退である。
それでも、永久政権として戦後の殆どの時代を君臨して来た「自負心と誇るべき歴史」を党の体質として失ってはいけない。
神、仏が、野党としての本来の任務はかく在るべきだと云う姿を、党の体質として議会で示すべきだ、その任務を与えられたのが今日の自民党である。政権の確保は政党の目的ではなく、手段だとの自覚を忘れてはならない。
民主党は、新政権の座に就き、強力な威力を味わい、やる気満々である。
政治に飽きあきしていた国民は、不安と共に、期待を込めて民主党に注目している。
永田町の舞台では、選挙の結果、自民党は脇役でしかなくなった。それでも、脇役こそが舞台を盛り上げる、主役以上の使命が在る。
省みれば我々民社党は、結党以来一度として主役の任を与えられたことはなかった。すべては脇役に堪えさせられた。その脇役でさえも今日では、会う人毎に「昔の民社党は良い政党であった」と懐かしがってくれる人は多い。
「自民党は脇役に徹せよ」、それが今日下された天命であると受け止めるべきだ。
かつて、民社党が是々非々を実行したとき、社会党の諸君は、民社党を第二自民党だと口汚く非難した、それでよい。審判者は国民である。そして神仏が温かく守護していると信じていた。
負け惜しみではない。新政権の民主党を助けることになっても、国家の為、国民の為だと野党は決意しよう。もちろん、邪な時には、身命を捨ててでも闘うべきだ。
その道に徹し続ければ、もう野党としての修練は完了したよ、と新しい政権への大道が待ち受けていると信じる。それが神のわざだ。
艱難汝を玉にす
政権を担当することになった民主党の行動が、既に勇み足でマニフェストにない部分が露出して、各地で混乱を招いている。
初めての政権担当だから無理も無いと、今は静かに見守るしかない、民主党内には冷静に対処する愛国者も居る。やがて正論を主張して、軌道修正をすることを期待するのみ。
今回の総選挙は、予測された結果とはいえ、それでも天命と最初に述べた。
天命は、人智の及ぶ以上の支配力を持つと思う。与党となった民主党も、野党となった自民党も、この先、自身の行動そのものさえも、「明・暗共につかみ得ない」のではないか。
かつて小泉元首相は、長期政権を全うした。安倍、福田、麻生の三首相は、すべて一年を満たすことなく退陣を余儀なくさせられた。これもまた天命と言わずして何と弁明出来るか。
政権の座に就いた民主党政権は、圧倒的多数で、こと衆議院は数の上では、微動だにしない。選挙に精魂を傾けている小沢一郎幹事長は、来年の参議院選に生涯を懸けて勝利を目論んでいる。
さすれば、国会運営は万々歳で、四年を完全に政権維持が出来ると期待するのが、今日の民主党首脳の皮算用であろう。民主政治が数の政治であることを誰も否定しないから。
だが、と別の立場から警鐘する。
国会議員は一人一票の投票権を持つが、その人物は、余りにも内容に差が在る。その上、民主党国会議員がその思想信条において、極右から極左にまで大差を抱える集団である。その点では自民党にも言い得るが、その相違は自民党の比ではない。
日本国家は、残念なことに、外的要因に影響を受け易い。経済的には輸出貿易で、米国及び中国に左右させられ。安全保障では、周囲の軍事大国中国及びロシアの脅威に翻弄されざるを得ない。
この内外の荒浪は、絶対の安全地帯の永田町を見逃しておくと勘違いしてはいけない。
国内の政局は、外的要因が決定的影響力を与える国際情勢となったことをも覚悟すべきだ。
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