真の「争点」は何か? 平成二十一年八月下旬 塚本三郎
八月十八日に衆議院選挙が公示された。
その前の八月十六日、私達、日本国家の前途を憂うる有志が、一般財団法人、国家基本問題研究所の名で新聞に意見広告を出して、有識者に次の如く訴えました。
本来ならば、現政権を担う責任政党の自由民主党総裁の麻生首相及び公明党が、既に堂々と対処していて然るべきです。
それが不充分であると共に、「政権交代」を訴えている鳩山さんに問いかけている。
麻生さんの自民党は「安心社会の実現」を、鳩山さんの民主党は「政権交代」を訴えて、総選挙が始まろうとしています。(八月十六日の時点)
麻生さん、「安心社会」とは、どのような社会を想定していらっしゃいますか?
鳩山さん、「政権交代」の先には、どのような国造りをめざしていらっしゃいますか?
日本はいま、重大な国家の危機に直面しています。
北朝鮮の核ミサイルの脅威と拉致された同胞の救出、
異民族を弾圧し難民を強制送還し異常な軍拡をする中国、
空洞化の危機に瀕する日米同盟、
展望も戦略もない経済政策、国益無視の地球環境政策、歪んだ戦後教育、
「行使できない」集団的自衛権、放置されたままの憲法。
「政権選択選挙」であればこそ、これら国家の基本問題への対応が争点でなければなりません。しかし、政党や候補者はこうした最重要の問題について見て見ぬふりをしています。これでいいのでしょうか。
各政党、候補者の皆さん、「政権選択選挙」を意義あるものとするために、「真の争点」について、逃げずに正面から受け止め、真剣に議論してください。それがあなたがたの責務です。私たち国家基本問題研究所は、そのことを、強く求めます。
国家基本問題研究所 理事長 桜井 よしこ
副理事長 田久保 忠衛
役員 荒木 和博 遠藤 浩一 芹澤 ゆう 西岡 力
石原 慎太郎 大岩
雄次郎 高池 勝彦 春山 満
井尻 千男 小倉 義人 立林 昭彦 平川 弘
伊藤 隆 工藤 美代子 塚本 三郎 平松 茂雄
上田 愛彦 佐藤
守 冨山 泰 渕辺 美紀
潮 匡人 島田 洋一 中條 高徳 屋山 太郎
梅澤 昇平 すぎやま こういち 西 修 渡辺 利夫
日本には国家としての確固たる基本と政治力が無い為に、外国からの圧力や、微妙な力関係が崩れると、すぐ不安定な立場に押しやられる。
あるときは極端な円高かと思うと、今度は世界の金融パワーの必要から、好き勝手に円安にふられたりしている。日本の国家としての政治上、外交上の弱点が、そのまま金融の操作によって、極端に弱い国にされている。
政治、外交、軍事、文化のいずれの方面においても、世界に通用するバランスのとれた強固な国となるよう努力することを目指すべきである。
今回の選挙は、「我々主権者の判断」そのものが問われている
国家運営としては、夏服を冬服に替えるように、政権交代が日常的に行なわれることは
好ましいことである。
そのためには、政権が代わるたびに、外交から内政まで様変わりしてしまうようでは、政策の連続性と、対外的な信用の問題から決して好ましいことではない。
田中角栄がもたらした功と罪
戦後、吉田茂、岸信介、池田勇人、佐藤栄作等の帝大出身のエリート官僚出身者に対して、田中角栄という学歴なき逸材が出現した。
彼は官僚的手法では、思いも及ばなかった政治手法で、「日本列島改造論」を、手掛けただけではなく、それを可能とする税制、即ち「受益者負担」の各種の税制を実現した。
特に自動車に対する目的税は、道路財源として、忽ち日本国中の道路を拡大、整備舗装し、車によって、日本中の大都会と地方を結ぶ大事業を達成せしめた。今日ではその税は、自動車と道路に必要な量を超え、一般財源にまで転用することとなった。
日本の政界は、戦後二十数年に亘って、行政経験の深い高級官僚が首座を占めてきた。そこへ田中角栄の登場によって、官僚の上に立つ「政治家の実力」即ち人事権と、立法権による、諸制度の支配が確立された。ここに初めて、「民主主義の政治」が第一歩を踏み出したと言うべきである。
立法作業と、官僚を支配する人事権は、国民に大きな利点と発展をもたらした。即ち「陳情政治」と呼ぶ、庶民の声を活かす道が活発となった。
だが、その裏には利権を伴うことも少なくない。民主政治は洋の東西を問わず、多少の利権による汚職は消し難い。しかし、陳情政治こそ、真の民主政治として機能している。
日本の憲政史上、稀有の政治家田中角栄は、その主たる業績を認められながらも、結果として、重大な業績を否定するが如く、「汚職の首魁」として、葬られている。
真の政治らしき姿を表わした田中角栄の、治政の負の一部をとりあげ、汚職の代表と非難し、やがて企業献金の禁止にまで及んだ。政治献金と政党助成金の何れがよいのか。
付言しなければならぬことは、献金禁止の代わりに、日本の国会が献金と同額以上の政党助成金を、お手盛りで作ってしまったことである。
政党も政治家も、今日では、国家と国民の立場よりも、自らの地位と、権力の座を占める為の政争に、奔走している姿は呆れ果てている。それが為に、今日の選挙は、国家観が喪失され、政党助成金投入に頼る国会議員は、政治家としての資質が問われている。
有権者の立場からみれば、政治家が国家と国民の為に、身命を捧げる、国家の船頭としての自負心よりも、観客の前で演ずる役者となり、国会が「劇場政治」に変り果てて居るとしかみえず、悲しみを通り越して、怒りと変りつつある。
政治がすべての支配力
昔の政治家は「井戸塀」と言われた。
資産の在る人が、公の為に政治家となり、持てる資産を、天下、国家、の為に使い果たして、残ったものは、井戸と塀だけだったと伝えられる。
民主政治が、その弊害を改めたことは言うまでもない。
時代は大きく変わりつつある。昔の例を述べることは愚である。さりとて政治家となることは、地位と金儲けが目的だと視られることは、余りにも卑しい。
政治家の地位も名誉も、或いは資産も、すべて政治目的である公のこと、即ち国家、社会の為である。その為の手段や結果だけが論じられて、大切な「政治の目的」と成果が表面化されないことが口惜しい。
経済は一流だが、政治は三流と、揶揄されたのは、昭和時代の末までであった。残念なことに、今日では、経済も社会生活も三流に堕してしまった、と、各マスコミは数字を並べて他人ごとの如く卑下した記事を書き立てる。
勿論警告の意味もあっての記事であろう。しかし実体はそれに近いと認めなければならない。
かつて、経済は一流と呼ばれた時代には、政治がそれなりに機能していた証拠である。政治が三流で経済だけが一流にはなり得ない。
日本国家はどう在るべきか、について、当時としては防衛も、外交も、教育も、各党はそれなりに論争を高めていた。それが独立国家としては、当然の政治課題であった。
マニフェストとは大衆迎合のことか?
国家の政治課題、即ち、防衛、外交、教育の施策が、全く抜け落ちてしまったとしか思えない。それが今日の衆議院選挙を巡る各党の自称マニフェストである。
当然のことが、当然らしく行なわれなければ、政治が、言われるが如く三流と化し、経済も止む無く三流に引きずり下ろされていくのではないか。
選挙戦の最中に、「日本国家の使命」は、と叫ぶ候補者の議論が各党共に聞えてこない、
「義務」と「責任」の中身が抜け落ちた候補者の街頭演説には、「権利」ばかりが目立つ。
国家に対する権利の主張には、責任と義務が伴うことは政治のイロハである。それがなければ民主政治は成り立たない。
だが今日の政争には、「国家と云う意識」が消えているやにみえる。候補者が選挙民に迎合するあまり、責任と義務を述べることを避けている。それでは国政は成り立たない。
政権交代が声高に叫ばれている。自民党をこらしめるため、一度民主党に政権を任せようといった、「うっぷん晴らし」では、問題は片付かない。
時代は戦後体制から急激に変化しつつある。その体制の中で、自民、民主両党は、二十一世紀を生き抜いていける「国家像」を政権の選択として示すべきだ。
判り易く言えば、「変えるべきもの」と「変えるべきではないもの」とを整理して、国民の前に示すべきだ。
戦後の日本は、戦禍の廃墟の中から立ち上がった先人たちによって、豊かな国を見事に築き上げた。だが肝心の「国のかたち」が抜け落ちていた。
今こそ、自民党も民主党も、心を一つに力を合わせ、国家の基本を立て直すことが、直面する日本の危機を乗り切る原動力となる。
保守といえども、革新といえども、こと外交、防衛、教育の三点だけは、徹底的に議論を重ねて、一致した方針を示すことが、一国の政権を担う政党の資格である。
国論を二分していては、独立国家とは云えない。とりわけ日本をとりまく四囲の状勢は、その必要を痛感する。
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