4月6日、台湾建国烈士 鄭南榕先生を偲ぶ集いを開催

講師はご縁深い許世楷・駐日大使と宗像隆幸・元台湾青年編集長

 戒厳令下の台湾に、中国国民党の圧政に抗い、言論の自由を求めて自らの身を
犠牲にした男がいた。死後、「台湾建国烈士」といわれた鄭南榕だ。覚悟の焼身
自決をしたときは42歳という若さだった。その知性と果敢な行動力が、今の民主
・台湾の礎を築いたと言ってよい。
 周知のように、共産中国の卑劣かつ姑息な罠にはめられて苦境に立たされてい
る奇美実業創業者の許文龍氏だが、鄭南榕の死後、その胸像を造って顕彰し、後
藤新平や李登輝前総統の胸像とともに奇美博物館に展示している。後藤新平や李
登輝前総統と並び称されるほどの人物が鄭南榕なのである。台湾史をよく知る者
にとって、この許文龍氏の見方に異論を呈する者はいまい。しかし、残念なこと
に、この「民族英雄」鄭南榕の偉業を知る日本人は少ない。
 そこで、来る4月6日、鄭南榕と親交深かった許世楷・駐日代表と宗像隆幸・
元台湾青年編集長を講師に、「台湾建国烈士 鄭南榕先生を偲ぶ集い」を開催す
る。
 当日は、主催する小田村四郎・本会会長、小堀桂一郎・日台交流教育会会長、
永山英樹・台湾研究フォーラム会長はもちろん、後援する在日台湾同郷会(河元
康夫会長)、在日台湾婦女会(郭孫雪娥会長)、台湾独立建国聯盟日本本部(黄
文雄委員長)、日本台湾医師連合(丘哲治会長)、怡友会(中里憲文会長)の方
々も参集する。日本において、このような趣旨の集いは初めてのことである。ふ
るって参加されたい。
 また、もうすぐ発行される本会機関誌『日台共栄』4月号(第6号)に「台湾
民主主義の旗手・鄭南榕烈士」と題した編集部記事を掲載しているので、いささ
か長いが、その事績を知る一助として紹介してみたい。
・4月号の主な内容は次号で紹介します。            (編集部)


■日 時  平成17年4月6日(水) 午後6時30分〜9時(6時開場)
■会 場  アルカディア市ヶ谷 4F 鳳凰
       東京都千代田区九段北4-2-25 TEL 03-3261-9921
       【交通】JR総武線 市ヶ谷駅 徒歩3分
           地下鉄 有楽町線・新宿線・南北線 市ヶ谷駅 徒歩2分
■講 演  許 世楷先生(台北駐日経済文化代表処代表)
      「鄭南榕烈士を偲ぶ」
      宗像隆幸先生(元『台湾青年』編集長)
      「鄭南榕は死んで神となった」
■参加費  1500円
■主 催  日台交流教育会、日本李登輝友の会、台湾研究フォーラム
■後 援  台北駐日経済文化代表処、在日台湾同郷会、在日台湾婦女会、台湾
      独立建国聯盟日本本部、日本台湾医師連合、怡友会
■申 込  電話、FAX、メールにて下記まで
      日本李登輝友の会 〒102-0075 東京都千代田区三番町7-5-104号
      TEL 03-5211-8838 FAX 03-5211-8810
      E-mail:ritouki-japan@jeans.ocn.ne.jp


台湾民主主義の旗手・鄭南榕烈士
身を挺して台湾の独立と民主化を推進したその軌跡

                              本誌編集部

■台湾の独立と言論の自由を求めて焼身自決
 台湾にはかつて世界一長い戒厳令が布かれていた。戦後の一九四九年(昭和二
十四年)五月二十日から一九八七年(同六十二年)七月十五日に至る、三十八年
間である。
 また、一九四八年五月十日から一九九一年(平成三年)五月一日に至る四十三
年もの間、総統が立法院(国会に相当)の制限を受けず、意のままに戒厳令や緊
急命令を発令できる「動員戡乱時期臨時条款」も定められ、中華民国はあくまで
も「中国の正統政府」であり、大陸の反乱を平定しなければならない「動員戡乱
時期」にあるということで、憲法が停止されていたのである。
 もちろん、この期間は言論の自由や集会・結社の自由などは許されず、新聞の
自由発行も禁じられていた。また、国民大会代表(参議院議員に相当)や立法委
員(衆議院議員に相当)などは、大陸反攻に成功するまで改選しないという緊急
命令が蒋介石によって発動され、ここにいわゆる「万年国会議員」が誕生し、台
湾人の国政への参与は剥奪されたのだった。
 これが戦後、共産党との国共内戦に敗れて台湾に落ち延びてきた蒋介石・中国
国民党(以下、国民党と略)の独裁下にあった中華民国の現状だった。そこで、
台湾の人々を目覚めさせ、この現状を克服すべくその身を挺して挑んだのが、歿
後「台湾建国烈士」の称号を捧げられた鄭南榕である。
 李登輝前総統が台湾人として初めて総統に就任した一九八八年(昭和六十三
年)、鄭南榕烈士は、当時、台湾独立建国聯盟主席だった許世楷氏(現駐日代表)
の「台湾共和国憲法草案」を、自ら主宰し編集長をつとめる「自由時代週刊」(
十二月九日発行、第百七十一号)に掲載した。
 年が明け、高等検察庁は叛乱罪容疑で召喚しようとして出頭を命じたが、鄭烈
士はこの名分なき召喚を拒否し、台北市内の自由時代社に籠城した。国民党の圧
政に抗議し、台湾の中華民国体制からの独立と完全な言論の自由を求めた籠城は
七十一日にも及び、「国民党は私を逮捕できない。逮捕できるとすれば、私の屍
だけだ」と宣し、四月七日午前九時過ぎ、百名を越える警官隊が包囲する中、宣
言通り自らガソリンをかぶって火を放ち、覚悟の自決を遂げたのだった。
 これが事件のあらましである。
 では、鄭南榕烈士がなぜ焼身自決にするに至ったのか、その軌跡を生誕にさか
のぼって素描してみよう。

■大陸出身の父と台湾人の母
 鄭烈士は一九四七年(昭和二十二年)九月十二日、宜蘭県五結郷に、四人兄弟
の長男として生まれている。父の鄭木森は中国福建省福州の出身で、日本時代に
台湾へ渡ってきた。母は客家系台湾人の謝恵琛で、両親は理髪店を営んで
いた。
 このように鄭烈士には台湾人の血が半分流れていたが、身分証の本籍は「外省
人」と記載されていた。
 鄭烈士は小さい頃から学に秀で、長じて両親の命ずるまま国立成功大学工程学
科に入学した。しかし、工学系に進級した後も哲学に深く傾倒していた鄭烈士は
、輔仁大学を受験し直して哲学系に入学する。
 ここで知り合ったのが、後に結婚する葉菊蘭さんである。葉菊蘭さんといえば
日本でもよく知られている。彼女は鄭烈士の自決後、民主進歩党(以下、民進党
と略)から立法委員に立候補して当選し、交通部長(運輸大臣に相当)や客家委
員会主任委員(客家担当大臣)に就任し、最近まで女性初の行政院副院長(内閣
の副首相)をつとめていた方である。
 鄭烈士の歿後、「台湾独立を夢みた夫の遺志をついで」と題した論考を「中央
公論」平成二年四月号に発表している。鄭南榕の死に直面したときの思いから、
国会議員をめざすようになった背景や、「人びとの心に翳りをもたらし、恐怖を
意識させる体制」だったという当時の台湾社会の実情を余すことなく描いている
、約一万字に及ぶ切々たる論考だ。
 この論考でも触れているが、鄭烈士は大学時代から国民党の独裁体制に違和感
を抱き、台湾の独立について考えていたという。それは、自決直前にまとめた遺
書というべき「独立こそ、台湾唯一の活路」の中でも「大学時代から、この問題
を考え始めました。長時間の思索と熟慮を経た後、どのような視点に立っても、
台湾は独立してこそはじめて明るい未来がある、と思うようになりました」とは
っきり述べている。
 それを示すエピソードを、葉菊蘭さんは自決後に発行された『自由時代週刊』
(一九八九年四月十六日付、第二百七十二号)の中で次のように述懐している。
 独立独行型でハンサムだった鄭烈士に好意を寄せる女子学生は少なくなく、葉
さんもその一人だったというが、輔仁大学の一年生のとき、鄭烈士はクラス代表
となったことがあった。これは「立候補した学生が国民党の推薦であることを知
って、かれは怒り、直ちに自分も立候補して対抗し、女子学生が全員かれに票を
入れたので、当選できた」のだという。
 また、輔仁大学から台湾大学哲学系に転じた鄭烈士だったが、卒業はしなかっ
た。その理由は「陳腐な孫文思想を強制する『国父遺教』の授業を拒否したため
」だったという。国士としての胆力がすでに現れているエピソードである。
 その後、雑誌の取材記者をつとめる傍ら、雑誌「深耕」に寄稿し、また雑誌「
生根」の編集も手がけていた。当時、この「生根」のメンバーは「新しい世代」
と称されたという。
 一九八四年(同五十九年)、三十七歳の時に先鋭的な内容の「自由時代週刊」
を創刊し、いよいよ本格的に国民党との戦いに入ってゆく。この「自由時代週刊
」は国民党の腐敗ぶりを容赦なく暴露し、次々とタブーを打ち破っていった。
 現在、台湾独立建国聯盟の主席をつとめる黄昭堂氏は「雑誌の内容は国民党の
極秘事項、高級幹部の秘事、秘密警察機関の内部抗争、軍事国防に関する情報…
…など、なみの神経の持ち主では掲載する勇気のないものばかりだ。その結果、
国民党特務機関からの脅迫があいつぎ、告訴沙汰は引きも切らなかった」(月刊
「台湾青年」一九八九年五・六月合併号)と証している。それは常に死と隣合わ
せの行動だったのだ。

■すべてが「台湾史上初」という驚くべき行動力
 一九八六年(同六十一年)には、先に触れた世界最長の戒厳令を大衆運動によ
って打破するため、鄭烈士は自由時代社を根城に「五・一九緑色運動」を組織し
た。五月十九日、台北の龍山寺で開かれた戒厳令撤廃を求めるこの抗議活動は、
台湾で初めて行われた大規模な大衆運動だった。
 鄭烈士は一方で、結党が禁止されていたにも拘らず、国民党に対抗する政党「
台湾民主党」を結成する準備を進めていて、その延長として民進党結党工作にも
参画している。しかし、鄭烈士は一九八六年九月二十八日に設立された民進党に
は加わらなかった。なぜなら、メディアの主宰者として客観的立場を堅持しよう
としたからである。同様の理由で、台湾独立建国聯盟にも加入していない。
 ところで、台湾では今でこそ「二・二八事件」について自由に語られるように
なったが、国民党が一九四七年(同二十二年)二月、前途有為の台湾青年などを
三万人以上も虐殺したこの事件を、戦後台湾で初めて陽の下に晒したのもまた鄭
南榕だった。鄭烈士は一九八七年二月四日、陳永興医師らとともに「二二八和平
日促進会」を結成し、暗闇の中に押し込められていた二・二八事件のタブーを解
いたのだった。
 さらに、この年の四月六日発行の「自由時代週刊」に、タブー視されていた台
湾独立活動家へのインタビュー記事を掲載する。その活動家とは台湾独立建国聯
盟日本本部の許世楷委員長(当時)で、台湾の心ある人々に、独立とは中華民国
体制からの独立であることを知らしめた。
 この月の十八日には、台北の金華国民中学の校庭で開かれた「国家安全法反対
デモ説明会」において、数千の参加者を前に堂々と台湾の独立を主張した。公然
と台湾独立を主張したのは、鄭南榕烈士をもって嚆矢とする。
 生前の鄭烈士と親交を持ち、自決後、編集長だった「台湾青年」で「鄭南榕記
念特集」を組んだ宋重陽こと宗像隆幸氏は、その中で「鄭南榕は、ついに公開の
場で、台湾独立を公然と主張し、台湾で最大のタブーを打破した。このとき以来
、『自由時代』誌は、台湾独立を前面に打ち出し、台湾全島で、台湾独立が公然
と叫ばれるようになったのである」(「鄭南榕よ、あなたは神となった」)と、
その意義を高く評価している。
 そして、一九八八年十二月、これもタブーだった憲法論議を起こすため、許世
楷氏の「台湾共和国憲法草案」を「自由時代週刊」に掲載したのだった。これも
また台湾初のことで、中華民国の虚構を暴いて台湾社会に強烈な衝撃を与えた。
            *
 鄭烈士の歿後、後藤新平や李登輝前総統の胸像を造った奇美実業の創業者であ
る許文龍氏は、鄭南榕烈士の胸像を造ってその事績を顕彰し、台南の奇美博物館
に展示している。
 また、自決した自由時代社の編集長室は現在、焼けただれたまま残され、詩人
の李敏勇氏が理事長をつとめる鄭南榕基金会が運営する記念館となっている。訪
れる日本人はまだまだ少ない。国民党の占領体制を根底から揺さぶった、台湾史
に燦然と輝く歴史的な場所である。台湾に行ったらぜひ訪れて欲しいものだ。

(財)鄭南榕基金会[http://www.nylon.org.tw
 台北市民権東路三段一〇六巷三弄一一号三階
 電話 〇二-二五四六-八七六六