許文龍氏制作の浜野弥四郎の胸像は後藤新平記念館に寄贈

もう3年ほど前のことになる。台湾の発展に尽くした後藤新平や八田與一、李登輝元総
統など、その功績を顕彰して胸像を制作している奇美実業創業者の許文龍氏が、師のバル
トンとともに台湾で水源地調査をして上下水道を整備した浜野弥四郎(はまの よしろう)
の胸像を制作されたことを本誌で報じたことがある。

 その後、この胸像の寄贈先として、本会の千葉県会員の方が出身地である千葉県成田市
や養子先の佐倉市の関係者に当たってみたが、結局は実現しなかった。2年前に千葉県支
部が発足してからも、支部として何とかしたいとメンバーが奔走したこともあった。

 12月7日、第4回台湾出身戦歿者慰霊祭の折、本誌でもお伝えした台湾紅茶産業の発展に
尽くした新井耕吉郎の胸像(これも許文龍氏の制作)についてご教示いただいた群馬県の
方から、浜野の胸像が後藤新平記念館に収められたことをお聞きし、昨日、その記事を送
っていただいた。

 記事は10月1日付の「岩手日日新聞」で、水沢中央ライオンズクラブが訪台した際、許
文龍さんから寄贈の申し出を受けて実現したという。9月30日にその除幕式が後藤新平記
念館で行われたそうだ。

 浜野の台湾での功績については、残念ながら未だ日本ではほとんど知られていない。関
係著書も、寡聞にして稲場紀久雄著『都市の医師−浜野弥四郎の軌跡』(水道産業新聞社、
1993年刊)しか知らない。

 3年前、許文龍氏がこの浜野の胸像について「台湾の下水道の歴史にバルトンの名は刻
まれてはいるが、浜野弥四郎のことはほとんど触れられていないということが以前から気
になっていました。デッサンから彫刻までを、私一人で行いました。私の第一号彫刻作品
です」と語っていたことをお伝えしたが、懸案だった胸像が、浜野を台湾に呼び寄せた後
藤新平の記念館に収められたことでようやく安堵の胸をなで下ろしている。

                    (メルマガ「日台共栄」編集長 柚原 正敬)


浜野弥四郎の胸像除幕 奥州・後藤新平記念館
【10月1日 岩手日日新聞】
http://www.iwanichi.co.jp:80/tankoh/item_8057.html

 後藤新平の命を受けて台湾で水道事業に尽力した浜野弥四郎(一八六九−一九三二年)
の胸像除幕式が三十日、奥州市水沢区の後藤新平記念館で行われた。水沢中央ライオンズ
クラブ(LC)と台湾との交流が縁となって実現したもので、作者はかつて後藤新平胸像
を制作・寄贈している許文龍さん。同記念館では胸像を台湾コーナーに置き、新平の人材
活用を知る資料として活用する。

 同LCは台湾のLCと以前から交流があり、今年度は台湾を訪問した。この時、許さん
とも交流し、許さんが制作した浜野弥四郎胸像を寄贈したいと申し出て、同記念館への贈
呈が実現した。

 浜野は東京帝国大学土木工学科衛生工学講座教授ウイリアム・K・バルトン(スコット
ランド出身)を師とし、明治二十九年、新平の要請によりバルトンと共に台湾に渡り水道
事業の調査・建設を進めた。同三十二年にバルトンが急逝した後も事業を継続、台湾近代
化に力を注ぎ大正八年帰国した。“病気の島”とまで言われた台湾で安全衛生に力を尽く
し「街の医師」と呼ばれ尊敬を集めた。

 除幕式では、市と同LCの関係者らが出席。岩井憲男副市長があいさつし「後藤新平の
人づくり、適材適所の手腕の一端を示す資料が記念館に置かれるのは素晴らしいこと。L
Cの長年の交流が形になったものとうれしく思う」と感謝した。

 この後、同LC前会長の佐藤英耕さんが経過を説明、菅原義子教育長らを交えて除幕し
た。胸像は高さ五十五センチ、幅四十五センチ、奥行き三十センチ。許さんは数年前に制
作後、浜野の実家がある千葉県内に寄贈先を求めたが、子孫の消息がつかめず断念、同記
念館への寄贈となったという。

 許さんは一九二八年、台南市生まれ。玩具・日用雑貨の製造からスタートし「奇美実業」
を設立、家電や自動車部品などに幅広く使われるABS樹脂の生産で世界最大のメーカー
に成長させた。九六年から李登輝総統の国策顧問に就き、政府行革に尽力した。次代を担
う子供たちのために奇美博物館を開設するなど美術にも造詣が深い。「台湾の発展にとっ
て最大の功労者は後藤新平」と語り、九九年に新平の胸像を制作・寄贈したほか記念館に
百万円を寄付した。

 「日本人ほど良心的な植民地政策を取った国はない。日本人はもっと自信を持って」と
エールを送っている。

【写真】後藤新平記念館で関係者により除幕された浜野弥四郎の胸像



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