第15回「台湾李登輝学校研修団」レポート(3)  佐藤 和代(本部事務局)

■ 第3日目(5月9日) 澎湖島で黄天麟先生と林麟祥先生の講義を拝聴

 前日(5月8日)の夕刻に到着した澎湖島。烏山頭ダムを後にした研修団は台南空港から
50人乗りのプロペラ機に乗り込み、30分足らずの空の旅を過ごし馬公空港に降り立ったの
でした。

 澎湖島は台湾本島から約150キロ。澎湖本島、西嶼、白沙の三島で巴の形をなして湾を形
作っており、その周りに小島が点在しています。澎湖群島ともいわれ、島の数は64にもな
るそうです。澎湖は歴史的遺産、海のレジャー、自然の風景が楽しめ、海産物の本当に美
味しい島です。一日ではとても全てを堪能することは叶わず、研修団は台湾と日本をつな
ぐ歴史的遺産を中心に訪ねることになりました。

■ 澎湖生まれの黄天麟先生のご講義

 この日は、黄天麟(こう・てんりん)先生と林麟祥(りん・りんしょう)先生のご講義
を拝聴した後、澎湖島巡りの予定です。研修団が宿泊した長春大飯店の食堂が研修室に早
変わりし、お二方のご講義をお聞きしました。

 最初に黄天麟先生のお話です。黄先生は第一商業銀行の頭取、会長を歴任され、その後、
李登輝先生の総統時代には国家安全委員会諮問委員を務め、民進党政権の8年間は総統府国
策顧問をお務めになった台湾経済界の重鎮です。

 先生は1929年(昭和4年)8月、澎湖本島の馬公市に生まれ、子供時代を過ごされましたが、
島には中学校がなかったため、台湾本島に渡り台南二中(戦後は台南一中)に進学されま
した。その後、戦争になり島には帰れず、戦後は台湾大学法学部経済系に進学、コロンビ
ア大学に留学後、第一商業銀行に就職されました。澎湖島に支店があれば勤めたかったそ
うですが、澎湖島に支店はなく、基隆支店などに勤められたそうです。

 先生曰く「ですから、澎湖島には昔の記憶しかないのです」。その澎湖島で印象に残っ
ているのが花嶼(はなじま)、そして馬公要港にある「そくてん島」(筆者は地図で確か
められず漢字が分かりません)だそうです(この「そくてん島」は満潮時に海面に沈んで
しまうので正式には島ではありません)。馬公の街には海軍の兵隊がいて、駐留軍もあり
飛行場もあり、経済は軍事施設に頼っているといえるそうです。先生が小学生のころには
今の観音亭のあたりに日本海軍が入ってくるのを見た記憶が残っているそうです。

 黄先生はその後、澎湖島の歴史に詳しい林麟祥先生を紹介され、マイクを譲りました。

■ 澎湖の「生き字引」林麟祥先生のご講義

 林麟祥先生は、澎湖で生まれ育ち、長く澎湖県庁にお勤めになり主計畑を歩かれたそう
です。日本時代の澎湖で生まれ育った日本人と台湾人の親睦団体である「日本台湾馬公会」
の特別顧問でもあります。澎湖の郷土史編纂の監修もされている、まさに「澎湖の生き字
引」の先生のお話は、澎湖の視点から台湾の数奇な歴史を辿るものでした。

 澎湖島は地理的に軍事上の要地として西洋に注目されたり、あるいは台湾進出への足が
かりとされてきました。そのため、しばしば戦乱に巻き込まれる運命を背負いました。

 12世紀前半にはすでに漢人は澎湖に移住していたようです。福建省の史料によれば、元
寇の頃(2回目の1281年)、元朝の臨時の役所ができたと一行書いてあるそうですが、これ
は裏付けとなる記載に乏しく信頼に値しないそうです。

 明朝初期(14世紀後半)より海賊が多くなり、澎湖では皆、福建省に撤退させられ、海
岸より50キロは居住しないようにしたそうです。

 16世紀初めにはポルトガル人が澎湖島の傍まできて澎湖を「エスカゴール(漁民の島)」
と呼んだそうな(史料では1544年にポルトガル人は台湾を「麗しき島(イラ・フォルモ
サ)」と賞賛したとある)。

 17世紀に入るとオランダ、スペインが勢力を伸ばし始めます。オランダは1602年には東
インド会社を設立し、世界に通商を申し込んだりしていました。1622年にオランダ艦隊(海
軍陸戦隊)が来て澎湖を攻撃、占領します。明との和議でオランダは澎湖を去り、台湾本
島を占領することになり、日本とも通商するようになります(日本としてはオランダ人に
乗り込まれた感じ。そのうち日本は鎖国へ)。

 しかし台湾ではオランダの圧政が強まり、オランダを追い出せの気運が高まってきます。

 大陸での戦いに敗れた明の遺臣・鄭成功は大艦隊を率いてまず澎湖を攻めて3日で陥落さ
せますが、たちまち食糧難に襲われ、鄭軍2万5千人は早々に台南に向かいます。1662年、
鄭成功はオランダを降伏させますが翌年病没。 

 1683年(康煕22年)には清の施琅(もとは鄭成功の部下)の大軍と明の鄭軍(軍務大臣・
劉国軒)は、澎湖島で大海戦をし、清の勝利に終わります。これより台湾は清の統治下に
おかれました。

 その後、清とフランスとの間で清仏戦争(1884〜1885)が勃発します。この戦争はベト
ナムの宗主権を争うものでしたが、台湾本島と澎湖島でも戦闘がありました。

 1884年、フランス軍はまず台湾の基隆、淡水に上陸するも引き返し、翌年再び基隆上陸、
フランスの手に落ちます。そのまま澎湖にも上陸、3日(林先生の説は2日)で占領しまし
たが、数日後には戦闘は解除され台湾は救われました。

 この澎湖島の戦闘でフランス艦隊提督クールベが風土病(マラリア)で死去。最激戦地
だった馬公鎮観音亭に埋葬されました。風櫃には澎湖で命を落としたフランス軍兵士たち
の慰霊のための「萬人塚」があります。

 次に、朝鮮を巡って日清戦争が起きました。

 1994年9月、日本が黄海(黄海海戦)で清の北洋艦隊に難渋したというのは、清国の軍艦
「定遠」や「鎮遠」が排水量7000トン級であるのに対し、日本の聯合艦隊の「松島」や「厳
島」は4280トンに過ぎなかったからです。しかし日本の船は小さいが速射砲が12本ついて
います(「松島」は32口径の巨砲が1基が後部についている)。日本は黄海海戦で勝利し
ます。

 1995年に入り清の李鴻章は何度か和議(和平交渉)を持ちかけています。3月19日には下
関にきて20日には交渉に入っています。しかし、すでに日本の南方派遣艦隊(聯合艦隊)
は佐世保に集合、3月15日には出港していました。

 北白川宮能久親王は(近衛師団長に任命され)台湾の軍司令官としてやってきました。3
月23日には比志島混成支隊は澎湖島に上陸し、3日間で占領してしまいます。

 なぜこのように首尾よくいったのか。それは準備の仕事がよかったのです。その5年前、
のちに台湾の初代総督となる樺山資紀は、領事・水野遵(のち樺山総督時の民政局長とな
る)を伴い、澎湖(台湾本島か?)に何度も来て調査をし、このくらいの砲弾なら届かな
い等の測定をしていたのです。

 さて黄海海戦で活躍し、その後、悲劇の最期をとげた軍艦「松島」についてお話しまし
ょう。「松島」は日清戦争では聯合艦隊旗艦として働き、その後、基隆、澎湖島、東港な
どにおいて台湾平定のため陸軍部隊の作戦行動を支援しました。日露戦争のときも戦闘に
投入されました。

 その後、艦の老朽化により、「橋立」「厳島」と三景艦そろって遠洋練習航海に参加。
明治40年12月25日(明治41年1月25日という説も)、横須賀を出港し、東南アジア、インド
洋方面を廻っての帰途、台湾馬公要港に寄港し停泊します。

 ところが、軍艦「松島」はその年の4月30日午前4時8分、火薬庫が爆発し沈没してしまい
ます。乗組員460余名中、殉難者は223名にものぼりました。実に乗組員の半数が亡くなっ
たのです。

 風櫃の蛇頭山には「軍艦松島殉職将兵慰霊碑」があります。この日の午後に訪れる予定
になっています。 

 林先生は以上のような澎湖の歴史を一気に語って下さいました。今でも老後の楽しみと
して読書し、勉強を続けていらっしゃるそうです。 

■ 黄天麟先生の周辺化理論

 その後、黄天麟先生の「周辺化理論」を澎湖の地で説明戴きました。「周辺化理論」と
は、小さな経済圏は大きな経済圏に呑み込まれるという理論ですが、黄天麟先生が澎湖島
の経済の動きを見ていて発見した理論です。

 澎湖においては澎湖本島と西嶼・白沙の間に橋を架け、西嶼・白沙を潤そうとしました
が、逆に大きな経済圏である馬公に人が集まってしまったこと、また、澎湖島と台湾本島
においても、澎湖は台湾本島に呑み込まれていったこと、そしてECFAにおいては台湾
が中国に呑み込まれる恐れがあるという説です。黄先生の生誕の地・澎湖で周辺化理論を
聴講できたことは感慨深いものがありました。

 お2人の先生の講義が終わり、黄先生とはお別れをして、研修団一行は林麟祥先生ととも
に澎湖島を巡る野外研修に出かけました。                 (つづく)

■ 澎湖県の日本語版ホームページ
  http://tour.penghu.gov.tw/Japan/index.asp



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