日本人はうそをつかない 【石川公弘】

NHKラジオ深夜便「心の時代−台湾少年工との60年」が28日と29日に再放送

 去る12月4日に催した戦後初の「台湾出身戦歿者慰霊祭」では、「東台湾と靖国神社」
と題した山口政治氏(第2回台湾李登輝学校研修団団長、東台湾研究家、本会理事)と、
「英霊との約束」と題した石川公弘氏(第3回団長、石川台湾問題研究所代表、本会理事)
による講話が大変好評でした。石川氏が「ブログ台湾春秋」で慰霊祭の様子や講話の内容
を掲載していますのでご紹介します。
 尚、先に行われたNHKのラジオ深夜便、心の時代「台湾少年工との60年」が、放送後
たいへんな反響だそうで、お手紙の一部を石川さんが講話のなかで嗚咽をこらえながら紹
介されていましたが、その再放送が下記のように決定されたそうです。
 12月28日(水)午前4時5分から45分間「台湾少年工との60年 その1 戦中篇」
 12月29日(木)午前4時5分から45分間「台湾少年工との60年 その2 戦後篇」

 また、下記のURLから音声ファイルへアクセスできます。ぜひお聞きください。
 http://www.nomusan.com/~essay/taiwan-syounenkou.html


日本人はうそをつかない

                        石川公弘(石川台湾問題研究所代表)

 あわただしく、今年も暮れていく。そんな時に、しばし自分の人生を振返ってみる。私
の余生は、すっかり台湾関係になってしまったようだ。台湾少年工と出会った戦時中、あ
のころの大気、特に冬の大気は鮮烈であった。10センチもある霜柱、吐く息は白かった。
足の指先にじんじん伝わる寒さ、南国から来た彼らの拳は、しもやけで赤黒く腫れていた
。防寒具も食糧も十分でなかった。平均14歳、どんなにつらかったことか。

 台湾少年工の選抜要件は4つ。学力優秀、身体強健、志操堅固、親の承認。彼らにとっ
て、一番難しかったのは、親の承認であった。向学心に燃えた多くの少年が、親に内緒で
願書に判を押した。そして両親から叱られたり、泣かれたりした。

 志操堅固を試すものに、口頭試問があった。嘉義区会の総幹事・柯永遠さんが書いてい
る。2つのことを聞かれた。その1、なぜ海軍工員を志願したのか。「ハイ、海軍工員と
して、一刻も早く一機でも多く優秀な戦闘機を製造して、この戦争に勝利するためです」
。その2、日本海海戦で、東郷元帥が部下の将兵に与えた言葉は。「ハイ、皇国の興廃こ
の一戦にあり、各員いっそう奮励努力せよ、であります」。もちろん、合格した。

 その柯永遠さんを、ものすごい試練が待っていた。柯永遠さんはそのとき、派遣されて
名古屋の三菱航空機製作所にいた。そこへB29による大空襲。横にいた同僚は、炸裂し
た爆弾によって死亡した。25名の台湾の仲間が死んだ。工場は焼け野原、遺骨と共に高座
海軍工廠へ戻った。いま思い出しても、涙が止まらないという。

 先の大戦で戦没した台湾少年工は60名。靖国神社へ合祀されている。去る12月4日、日
本李登輝友の会・台湾李登輝学校研修団が中心になって、先の大戦で亡くなった2万8千
柱に及ぶ台湾人戦没者の慰霊祭が、靖国神社で行われた。

 約60名で昇殿参拝した。李登輝学校第一次研修団長・久保田学習院女子大教授による祭
文にも、台湾少年工の事績が紹介されていた。私も玉串を捧げ参拝する。10年早く生まれ
ていたら、ここに祀られていたかも知れない。静寂の中でそれを思うと、突然悲しみがこ
みあげてきた。

 その後は講演会。第二次・第三次研修団長が、30分ずつ講演を割当てられる。山口政治
第二次団長のテーマは、「東台湾と靖国神社」。私は演題を「英霊との約束」とする。最
近は加齢のためか、緊張すると口が渇く上に、涙腺がゆるんだのか、涙がすぐ出る。場所
が場所であり、テーマがテーマだけに、うまく話ができるか心配。

 話は戦時下の台湾少年工とその試練から入る。そして、台湾で聞いて衝撃を受けた元台
湾少年工の陳碧奎氏の言葉を中心に据えることにした。陳さんは言った。「日本人は威張
っていたが、うそはつかなかった。大陸から来た連中は、うそばかりついた」。陳さんが
、「うそをつかない日本人」の例として挙げたのが、特攻隊だった。

「最初に特攻を志願した関行男大尉、新婚早々で奥さんのお腹には赤ちゃんがいた。でも
、“後に続く者を信じる”と突入していった。すると日本の若者、4,500人が後に続いた。
“お前たちだけを死なせない”と言っていた大西滝次郎中将は、終戦後その責任を取って
腹を切り、介添えを断って血の海の中、苦しみながら死んでいった。日本人はうそをつか
ない」

 すでに誰の目から見ても、敗色は濃厚であった。陳さんは、「彼らは死を以って、防人
としての約束を果たした」と言う。台湾人の陳さんにその事実を指摘されて、狼狽したの
は日本人の私であった。十数年前の話である。

 慰霊という言葉がある以上、それは霊の存在を前提としているはずである。「約束を果
たして死んで行った者に対し、生き残った者が約束を果たさなくてよいのか」というのが
、私の論点である。生きている者同士なら、その約束は変更できても、死者との約束は、
変更することが出来ない。

 4,500人の若者像をより鮮明にするため、私はNHKラジオ深夜便放送を聴いて、はるば
る豊川市から会いに来てくれた大羽市郎さんの持参してくれた「戦争の記憶」という資料
を参考にした。それはレイテ沖の敵艦船に明日突入する特別攻撃隊の若者たちから、肉親
へ当てた遺言や遺書を受け取り、肉親に代わって別れの盃を交わすことを依頼された女子
挺身隊員の手記であった。

「案内された部屋には、弱冠23歳の隊長を頭にして、紅顔の美少年が日の丸の鉢巻も凛々
しく正座して待っていた」そうである。私の末子もその年頃、もし彼がその場に座ってい
たらと考えるだけで、胸は張り裂けそうになる。20歳前後、どんなにか生きたかったであ
ろう。特攻は自殺行為ではない。自殺とは、死にたい者が死ぬことである。彼らは信ずる
大義のために、防人としての責務を果たすために、強烈な生への欲求を抱きながら、死ん
で行ったのである。

 感情がこみあげてきて、話せなくなるといけないと思い、その部分は原稿を読むことに
した。しかし、読んでいても、こみ上げてくるものを、抑えることは出来なかった。私だ
けでなく、多くの人が、ハンカチで目を拭っていた。私利私欲のため、必要な鉄筋をおろ
ぬくような輩に、聞かせたい話である。
                          【12月9日 ブログ台湾春秋】



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