台湾少年工の大和魂−記者ノート2008年

台湾少年工の事績やその交流については本誌でもずいぶん紹介しているが、昨日の読売
新聞が本会会員でもある呉春生(くれ・はるお)さんの事績を紹介している。

 読売新聞は10月30日付でも映画「緑の海平線〜台湾少年工の物語」に出演した呉さんを
取り上げているので、これで2度目である(本誌10月31日発行、第893号参照)。

 台湾少年工に対して、未だにいわゆる「従軍慰安婦」のように「強制連行」されたとい
う見方がある。だが、呉春生さんたち台湾少年工自身がそれをきっぱりと否定している。
厳しい選抜試験を通ってきたことから「みんな選ばれた人間という意識を持ち、誇り高く、
張り切っていた」(10月30日付「読売新聞」)と断言する。そして「『お国のため』とい
う気持ちで頑張った」と胸を張る。

 このような「強制連行」説には、日本をおとしめ、台湾と日本の絆を断ち切ろうとする
底意が隠されている。しかし、台湾少年工自身が何度も否定しているので今でこそ鳴りを
ひそめたが、いつまた復活するとも限らない。それ故、本誌では台湾少年工の事績を事あ
るたびに紹介している次第だ。

 台湾少年工は靖国神社にも祀られている。李登輝学校日本校友会は12月7日、今年で4
回目となる「台湾出身戦歿者慰霊祭」を斎行した。大東亜戦争には約20万人の台湾出身者
が軍人・軍属として出征して30,304名が戦歿している。現在、靖国神社にはその内の27,8
64名の方々がご祭神としてお祀りされ、その中に台湾少年工60名が含まれている。

 台湾出身戦歿者に対する慰霊の心とともに、「国のため、大和魂を持って戦ってきた」
と言う呉春生氏の言葉を、私たちは忘れてはなるまい。           (編集部)


台湾少年工の大和魂−記者ノート2008年
【12月29日 読売新聞】

 「この道が宿舎から工場までの通勤路。みんなで軍歌を歌いながら約20分かけて歩いた
んです」。大和市上草柳のアスファルトの道路を、近くに住む呉春生さん(79)は見つめ、
60年余り前を振り返った。

 工場とは戦時中、旧日本海軍厚木飛行場(現米海軍厚木基地)北側の座間、海老名市に
あった「高座海軍工廠(こうしょう)」。呉さんは、この軍需工場で、台湾出身の少年工約
8000人のうちの1人として戦闘機などの生産に携わった。

 原っぱだった通勤路周辺は、今は住宅街。当時の面影はない。だが、忘られつつあった
高座海軍工廠や台湾少年工のことを「この地域の人たちも、知っているかもしれない」と
いまは思う。今年10月、元台湾少年工の証言を記録した映画「緑の海平線〜台湾少年工の
物語」(郭亮吟監督、2006年制作)が県内で初めて横浜市中区の映画館で上映されたから
だ。

 映画は、同工廠の写真や映像、呉さんら元台湾少年工のインタビューで構成し、彼らが
戦中、戦後をどう生きたかを描いている。上映は1週間だったが、盛況だった。制作者側
との質疑応答では客席から「こういう映画をつくってくれてありがとう」という声も上が
った。呉さんにも、映画を見た友人たちから「君たちがこんなに苦労していたとは知らな
かった」といった電話があった。

 日本は、戦時中の労働力不足を補うため、統治下にあった台湾から優秀な少年を動員し
た。呉さんは、1944年、15歳の時に同工廠へやって来た。「働きながら勉強でき、国のた
めになると思い、希望に燃えて志願した」。実際には、勉強する時間はなく、物も不足し
ていたため、ボロをまとい、げたをはいて過ごした。しかし、「誰を恨むわけでもなかっ
た。『お国のため』という気持ちで頑張った」

 64年に、元台湾少年工を集め、在日高座会を結成。97年には「台湾少年工の足跡を伝え
よう」と大和市内に台湾式のあずま屋「台湾亭」も建立し、1997年、同市に寄贈した。

 しかし、メンバーが高齢化するにつれ、同会の活動は先細りとなった。地域でも台湾少
年工のことを知る人は少なくなったと感じていた。そんな時に、祖父から台湾少年工の話
を聞き、映画化を決めた郭監督から、協力を求められた。

 呉さんは「生の声で伝えることは難しくなったが、幸い、台湾少年工の存在を描いた、
素晴らしい映画が残った。若い人たちにも、私たちが国のため、大和魂を持って戦ってき
たことを感じ取ってほしい」と話した。                (鈴木貴暁)



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