【読者の声】台湾の地質研究者(8) 馬廷英 [地質学研究者 長田 敏明]

地質学研究者の長田敏明氏からの第8弾として、戦前に東北帝国大学で地質学を学び、
戦後は台湾大学地質系の教授と台湾海洋研究所所長を務めた「馬廷英」について投稿し
ていただきましたのでご紹介します。                 (編集部)


戦前の台湾の地質学研究史−地質研究者伝(8) 馬廷英(1899-1979)

                           地質学研究者 長田 敏明

 馬廷英については、Yang J.&David Oldroid(2003)や国立台湾大学編『地質科学系
史』(既教師著作目録)の第5章の第1項(11-14頁)で述べられている。これに基づいて
以下に記載する。

 馬廷英は、1899(明治32)年に中国遼寧省金県に生まれ、1979(昭和54)年9月15日、
台北市で胃ガンのため死去した。享年80歳。

 馬は1917(大正6)年、故郷の金州中学校卒業後、一念発起して来日し、東京高等師範
学校で博物学を学んだ。優秀な成績で東京高等師範学校を卒業し、その後日本にとどま
り、引き続き東北帝国大学地質古生物学教室に学んだ。

 1929(昭和4)年に大学卒業後、大学院に進学して研究を行った。1934(昭和9)年に、
古生代の珊瑚化石内部構造とその成長率との関係が海水温度と関係のあることを示し、
東北帝国大学より理学博士の学位を得た。

 この研究は、当時の古生物学界でも注目の的であったが、1933年に論文が完成したと
きに当時の日本軍部が介入し、馬廷英に学位を与えるべきでないとした。このとき、指
導教授であった矢部長克(1878-1969)は、敢然として「学術には軍隊は介入するべきで
はない」と言い放ったそうである。矢部は苦肉の策として、馬の学位論文をドイツのベ
ルリン大学に審査を依頼した。そこから学位がすぐ出たが、これを見た軍部は、馬にす
ぐ学位を与えるように指示したそうである。

 1936年、学位を得た後で、日中関係が緊張しているなかで、丁文江の要請で、秘密裡
に離日して中国に帰国したが、その際、日本の重要な科学的資料を持ち出したというこ
とで日本の憲兵に拘束された。しかし、矢部の軍部への進言によって無事故郷に帰るこ
とができた。そして、中国の中央研究院地質研究所員となった。

 馬は1935年4月〜9月に東沙群島の珊瑚の調査を行った。馬はまた、この諸島の古代遺
物の存在を示した。ときの中央大学の応朱留の要請もあって中央大学の教授を兼務し、
珊瑚化石の示す海水温を用いて、古気候の研究ならびに地質時代の気候変遷・氷河の消
長・黄土や海底地形などの諸問題などの討論を行った(Ma.T.Y: 1937,1940,1941etc)。

 馬廷英は、1945年に日本の敗戦に伴い台北帝国大学の接収に立ち会うため、台湾を再
訪した。馬は、当時の台湾の怠惰・無気力な風潮を看て取って、地質討論会を行って、
大いに人心を鼓舞した。

 このことから、政府は馬廷英に教育庁長官及び台湾大学総長となることを依頼した。
しかし、馬は行政官となることは喜ばず、台湾大学地質系の教授と台湾海洋研究所所長
を引き受けた。この海洋研究所は1950年には閉鎖されたが、『中国海洋誌』は馬個人の
力で出版を継続した。

 1945-1947年の経済的に困難な時期の1945年に蘭與の動植物と地質調査を行い、1947年
には南沙諸島と海南島の学術調査を実施した。1950年代には「石油成因論」に言及した。


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