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李登輝前総統「日本の教育と私(5)−誠意ある実践こそ日本精神」

【9月18日付 産経新聞】

 武士道とはかつて日本人の道徳体系でした。封建時代には武士が守るべきことを要求さ
れたもの、もしくは教えられたものです。
 それは成文法ではない、精々、口伝による、もしくは数人の武士、もしくは学者の筆に
よって伝えられた僅かの格言があるに過ぎず、むしろそれは語られず、書かれざる掟、心
の肉碑に録されたる律法たることが多いのです。不言不文であるだけ、実行によって一層
強い効力が認められているのです。
 それはいかに有能なりといえども1人の人の頭脳の創造ではなく、またいかに著名なり
といえども1人の人物の生涯に基礎するものではなく、数十年、数百年にわたる武士の生
活の有機的発達でありました。それがやがては日本人の行動基準となり、生きるための哲
学にもなりました。
 具体的には、武士道精神は公の心・秩序・名誉・勇気・いさぎよさ・惻隠(そくいん)
の情・躬行(きゅうこう)実践を内容にしつつ、日本人の精神として生活の中に深く浸透
していったのです。
 日本精神について、台湾嘉南大圳(かなんたいしゅう)、烏山頭(うざんとう)水
庫(ダム)を建設した八田與一氏を例として述べましょう。
 嘉南大圳の灌漑面積は15万ヘクタール、烏山頭ダムの水源建設総工事費は400万
円、当時の台湾総督府の年間予算に匹敵する大工事でした。工事期間は10年、32歳の若さ
でこの巨大工事を成し遂げた八田氏は、この工事でソーシャルジャスティスを実践、日本
人精神を発揮しました。
 烏山頭ダムと濁水渓から取り入れた水は合計1億5000万トン。しかし、これでは15万ヘク
タール全域に給水することは不可能でした。
 八田氏は普通の土木工事の技術者と違い、『ダムと水路を完成すればそれで終わりであ
る!』とは考えませんでした。彼は農民のためにダムや水路を造るのであれば、何とかし
て農民にあまねく水の恩恵を与え、生産が共に増え、生活の向上があって初めて工事の成
功であると考えました。彼はこのために、三年輪作という耕作方法を考え、水をすべての
農民に行きわたる方法を講じました。
 嘉南大[土川]の工事で134人もの人が犠牲となりました。完成後に殉工碑が建てられ、
その碑には全員の名前が台湾人、日本人の区別なく刻まれていました。
 関東大震災の影響で予算が大幅に削られ、従業員を退職させる必要に迫られたことがあ
りました。その時、八田氏は幹部の『優秀な者を退職させると工事に支障が出るので、退
職させないでほしい』という言い分に対し、『大きな工事では優秀な少数の者より、平凡
な多数の者が仕事をなす。優秀な者は再就職が簡単にできるが、そうでない者は失業して
しまい、生活できなくなるのではないか!』といって、優秀な者から解雇しています。
 八田夫婦が今も台湾の人々によって尊敬されるのは、義を重んじ、誠をもって率先垂範
、実践躬行する日本的精神が脈々と存在しているからです。八田夫婦の例を挙げて、私が
ここで皆さんに申し上げたい事は、日本精神の良さは、口先だけではなく、実際に行う、
誠実をもって行うというところにこそあるのだということです。(題字は李登輝氏)


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