――「支那人は不可解の謎題也」・・・徳富(29)徳富蘇峰『支那漫遊記』(民友社 大正七年)

【知道中国 1804回】                      一八・十・仲五

――「支那人は不可解の謎題也」・・・徳富(29)

徳富蘇峰『支那漫遊記』(民友社 大正七年)

もう少し、「(四四)自治は自衞也」が続く。

目下の世界の趨勢は大国化である。英国が世界各地に持つ植民地や領土を「打て一丸となし、茲に固形的の大英帝國を、組織せんとするも」、その一環である。

このような時代に、なんらの基礎的条件なしに「隣邦たる日本に模倣して、中央集權の政を施かんとする」のは大きな間違いだ。やはり「中央集權によりて、支那を大ならしめんとするは、支那を小ならしむる所以也」。

■「(四五)財力統一」

かりに「支那合衆國」が生まれようと、やはり「中央政府の存在は必要也」。ならば当然のように「精神的、財力的、兵權的統一」は絶対条件だ。そこで先ずは「財力の統一」が求められるが、「幣制の統一」が最優先となる。なぜかというと、第1に「全國を擧げて、混沌、亂雜、錯綜せる通貨を、整理」し、第2に「斷然支那に向て、金本位制を施行する」必要があるからだ。

世界の大勢ではない銀本位制に固執する限り、貿易取引が金銀価格の変動に左右されてしまう。それでは「一種の投機商賣にして、正經の商業」とはいえない。

■「(四六)焼石に水」

もはや「議論よりも實行の域に進みつゝある」「幣制の統一に際しては、支那に一の中央銀行の創設を創設するの、必要あるや論なし」。その場合、「支那人以外の人物に、管理せしむる可きや、亦た論なし」。それというのも、「支那人のみに放任」した挙句に失敗した中国銀行や交通銀行の例が示しているように、彼らに近代的な銀行の経営はムリなのだ。 

  

「敢えて支那人以外の人物」を挙げて「公平に論ずる」なら、やはり「日本人を以て、最も適當と信ずるもの也」。

■「(四七)中央銀行の創設」

将来のことは判らないが、「今日の所にては、支那人は會社的資格を有せず」。じつは「彼等は個人として、洵に抜目なく働く」が、「一旦協同事業となれば、乍ち其の會社を喰うて、私腹を肥やさんとする」。「私腹を肥やさん」ことになれば、「社長、重役より子使、苦力に至る迄、殆んど一貫徹底したる傾向」である。つまり会社経営には至って不向きということになる。

だから彼らに銀行経営を任せたら経営トップから“率先垂範”して「銀行を喰物とする」。そこで銀行の規模が大きければ大きいほどに、「其の禍害は大なる也」。であればこそ幣制改革のためと外国政府が借款を与えたところで、「泥坊に追錢の類」となってしまう。]

「眞に貨幣統一、金貨制度施行の目的を達成せんと欲」するなら中央銀行の創設は急務だが、まともに機能している財政機関はイギリス人が総括する税関と塩税務の2つの機関のみという現状に鑑みるなら、やはり中央銀行経営は「支那人以外の監督者に、一任せざる」をえない。

ここで問題は、「支那人は寧ろ通貨界の亂脈なるを利用し、其間に奇利を博せんとする者多き」ことに加え、「政府の根底動揺して、貨幣に關する國是の、確立せざる」ことである。であればこそ、「貨幣統一、金貨制度施行」という大事業に「着手して失敗するよりも、寧ろ着手せざるに若かず」である。

■「(四八)尚武と右文」

「日支の兩國の國民性に於て、最も相違の點を求めなば、一は尚武の國にして、他は右文の國」だということ。「尚武の國」が日本であることは、もはや言うまでもない。《QED》


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