――「支那人は不可解の謎題也」・・・徳富(24)徳富蘇峰『支那漫遊記』(民友社 大正七年)

【知道中国 1799回】                      一八・十・初五

――「支那人は不可解の謎題也」・・・徳富(24)

徳富蘇峰『支那漫遊記』(民友社 大正七年)

たしかに徳富の提案する経済的同盟によって日本の技術と支那の豊富な天然資源とが合体すれば、双方の間で「双嬴(ウイン・ウイン)関係」が成り立つことになる。だが、「日本人を利用せよ」と呼び掛けようとも、彼らが素直に応ずるわけがない。そうこうしているうちに、欧米諸国が競い合ってオイシイトコロを掠め取ってしまう。

そこで徳富は、「日本側に於ても支那人を利用せよ」と呼び掛ける。

■「(二五)如何にして支那を利用す可き乎」

徳富の「所見によれば、日本人の支那に對する、未だ浮調子」のまま。つまり「眞面目なる研究が足らぬ」のである。「眞に日支の經濟的同盟を作るし、長く久しく支那の資源に頼らんと欲せば、先づ根本的に其の思想と、態度とを一變」しなければならない。つまり「支那を他國と思はず、自國同樣に考えへ、支那人を他人と思はず、同胞同樣に考へる」べきだ。「支那を歷史的、社會的、經濟的に研究し」、彼らの「心理情態を研究し」たうえで、「支那に對して、自ら一大重責を負擔するの決心、覺悟、準備、實行」が必要だ。

「經濟的同盟」は経済のレベルに止まるものではなく、その効果を高めるためには「政治上、軍事的、敎育的の幇助は勿論、思想的、感情的、融和共通を必要」としなければならない。双方の関係は「彼の有餘を以て、我が不足を補ふ」などといった「淺薄なる了見」であってはならない。

■「(二六)日本人支那知らず」

「支那人の日本に關する智識の、不充分なるよりも、日本人の支那に關する智識の不充分なるを遺憾とす」。日本人は「今日に於ても、支那の事を觀察するに、唯だ日本人の立場よりし、己を以て他を料る者多」く、それは「上は國際的交渉の大より、下は社交的關係の小に到る迄」一貫している。

「要するに支那及び支那人は、世界の謎題」ではあるが、それを解きほぐす努力もせずに、「一切之を無視し、唯だ眼前に暴露せられたる現象を捉へ、直ちに自己流儀の標準にて、之を判斷し去らんとす」るが、「其の見當外れも亦宜べならずや」。

■「(二七)四千年の歷史」

「支那人は不可解の謎題也」。ちょっと見たところは「如何にも肌臅り善く、與みし易いきに似たれども、彼らは海千山千の代物」である。日本人から見て「海千山千の代物」であるだけでなく、欧米人から見てもそうなのだ。やはり「支那人は、生まれながらにして、戰國策の得業士」である。つまり、煮ても焼いても喰えない。

だから彼らに対するに「つまらぬ小策を弄する」などは、まるで「我が短を以て、彼の長に當る」ようなものであり、まさに骨折り損の草臥れ儲けの類の結果を招くだけだ。にもかかわらず、なぜ「動もすれば、此の失體」を犯してしまうのか。それは「支那を研究せ」ず、「支那人を了解せざれば」だからだ。つまり「支那及び支那人を、主觀的に獨斷し、己を以て他を律するの結果」ということだ。

じつは「古の支那は、今の支那の如く、今の支那は、古の支那」のようなものだから、「支那に臨む者は」、「せめて左傳や、史記の素養や、若しくは三國志や、水滸傳の智識」を身に着けておくべきだ。それらは「過去の記録」でも「一種の小説」でもない。そこには「支那人の思想や、生活や、大にしては國際的の掛引や、小にしては個人間の關係」などが盛り込まれている。

「蓋し現代の支那人は、突如として星界より、墜下し來たる者にあらず、彼等は四千年の歷史を背負うて立つ民族」なのだ。「主觀的に獨斷」するの愚は犯すべからず。《QED》


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