――「支那人は不可解の謎題也」・・・徳富(19)徳富蘇峰『支那漫遊記』(民友社 大正七年)

【知道中国 1794回】                       一八・九・念五

――「支那人は不可解の謎題也」・・・徳富(19)

徳富蘇峰『支那漫遊記』(民友社 大正七年)

 「人に對し、世に處する智巧に於ては」、「世界の田舎漢たりし日本人」は「現時の支那人」にさえ「及ぶ所にあらず」。「支那人の策略を弄するは、殆ど先天的の性格」のようなものであり、そんな「支那人に向て、兎角の智術を逞うせんとするは、恐らく彼を知り、己を知るものと云ふ可らざらむ」。

 「要するに支那人は、寧ろ文明に食傷したる人種也。支那は文明中毒國也」。そんな「國柄、人柄」に対し「嗜好、趣味、感情、思惑を無視して、一氣呵成に、我意を貫徹せんと」して「淺薄なる小策を逞」しくしたところで、まったくの無意味である。

 以上を言い換えるなら、紀元前の春秋戦国の時代から現在に延々と続く“人たらし”の天才である彼らを前にしては、我がオモテナシは余り意味をなさないということだ。

 ■(一二)一片の空證文」

 「若し眞に日支親善を實行せんと欲」するならば、「(第一)は力也、(第二)は利�也、(第三)は思想及び感情也」という「三個の要素を具備」する必要がある。

 「(第一)力とは」、「支那を極東の國際政局に於て、支持する」だけの「決心と實力」であり、それを「支那人に向て會得、貫徹せしむる」ものでなければならない。「日支親善の前提として、我が軍備の充實は、片時も油斷あらざる可らざる也」。

 「(第二)利�とは」、「日本が、支那より利�を取る」だけではなく、「支那に向つて利�を與ふる」ものでなければならない。要するに官民ともに利益を共通することであり、「彼我利�の分配を意味するもの」である。

 「(第三)思想及び感情とは」、「今日の同文同種抔と、互ひに紋切形の世辭を、交換するに止らず、眞に兩國民の思想、感情の上に於て、互ひに相依り、相倚るの紐帶を出來せしむる」ことを指す。

 かくして徳富は、「現時間の日支親善を語る者」に対し、「力に於て」「利�に就て」「思想及び感情」において、「遺憾ながら、甚だ其の不徹底を認めざるを得」ないではないかと問い掛けた後、「如上の三要素を控除しての親善ならば、是れ唯だ一片の空證文のみ」と断言した。

 だが、この徳富の考えは明らかに間違っている。徳富の言葉を借りて説明するなら、我らは「世界の田舎漢たりし日本人」である。だから彼らに対しても「文明中毒國」の「嗜好、趣味、感情、思惑を無視して、一氣呵成に、我意を貫徹せんと」する。つまりバカ正直に軍事的に彼らを守り、「双?」「互利互恵」に邁進し、甚だしきは「兩國民の間に、共響、同鳴の點を見出」そうと努める。だが「文明中毒國」の彼らである。「人に對し、世に處する智巧に於ては」、「世界の田舎漢たりし日本人」なんぞを相手にするのは赤子の手をヒネるようなものだろう。であればこそ我らが「三個の要素を具備」するなんぞ、まったく骨折り損の草臥れ儲けというものでしかない。

 触らぬ神に祟りなしの格言に倣うなら、やはり触らぬ疫病神に祟りなし、である。

 ■「(一三)信頼と安堵」

 「力は支那人の最も缺乏する」もの。「故に最も必要とする所也」。「力の福音は、支那感化の第一義」ではあるが、一朝有事の際には「日本單獨の力」で「支那の安危存亡の衝に膺」る覚悟が必要だ。「最近の事實に就て」考えれば、大隈内閣における21カ条要求が好例だが、日本の対応は間違っている。彼らは「事大主義者」であり、「有力なる威勢に對しては、無抵抗者」だが、「此の威勢を利用するに於て、抜目なき實利者也」。その点を弁えたうえで十分な「力」と「決心」を以て徹底して対する――これしかないようだ。《QED》


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