――「支那人は不可解の謎題也」・・・徳富(17)徳富蘇峰『支那漫遊記』(民友社 大正七年)

【知道中国 1792回】                       一八・九・念一

――「支那人は不可解の謎題也」・・・徳富(17)

徳富蘇峰『支那漫遊記』(民友社 大正七年)

 徳富は、留学といえば日本ではなくアメリカ、外国語といえば日本語ではなく英語という状況を実感したわけだが、背景に何があったのか。我が大隈政権が大正4(1915)年に中華民国政府につきつけた21カ条要求に起因する反日運動が起こり、翌年5月に山東省で起こった暴動で日本兵1人が犠牲になり、やがて1919年に発生した「五・四運動」にみえる本格的な反日運動につながることになる。徳富の説く「日本�師の退去と日本語の驅逐」「日本語の閑却乎日本の閑却乎」には、違った要因があるようにも思える。振り返れば来年(2019年)は五・四運動勃発から100年目の節目の年なのだ。

じつは徳富と同じ大正7(1918)年に学術調査を行った諸橋轍次は『遊支雜筆』(目�書店 昭和13年)のなかで、当時の中国における新文化運動について綴っている。いずれ『遊支雜筆』を詳細に検討する予定だが、参考のために「日本�師の退去と日本語の驅逐」「日本語の閑却乎日本の閑却乎」という問題に関連する範囲で、諸橋の考えを示しておきたい。

「此れの二三十年間支那の新文化運動に貢獻した各國の状態を簡單に申」すと、「日本が割合に早」かったが、「こゝ十數年、亞米利加、英吉利の文化は非常な勢で入り込みました。これにフランスが続く。かくして「殘念ながら、英米の勢力が日本のそれよりは多」く新文化運動に影響を与えている。

「大體今の支那の人が文化上に就いて日本を嫌つて英米に近付く」原因は「三つ四つあると思われ」る。「一つは文化を輸入する手段方法に就て日本の方が甚だ拙い。二つには世界の風潮の影響を受けて居る。三つには日本の世界に於ける地位――文化上の地位と云ふやうなものが、支那の人に低いと考へられて居る」。このうちの「第二と第三とは實は支那の人が日本を嫌ふ口實であります」。だが「本當の支那の人の多く感じて居る實感は、第一」に起因するようだ。

たとえば、と諸橋は北京における日本の同仁病院とアメリカのロックフェラー病院を比較して説明する。

前者は「西洋流建築物で餘り大きくない」。これに対し後者は規模が大きいばかりか「其の樣式は青い煉瓦に赤い柱、全然支那式にやって居ります」。2つの病院の違いに「日本及び英米の支那に對する文化政策の形が其儘現れて居る」ようだ。「如何にも日本の人は支那の習俗に親まない、過去の文化を認めてやらない、或は支那の言語を用ひてやらない」。これとは反対に、「西洋の人々、宣�師始め他�育に携はる人々の遣方を見ますると、支那の人々と化して遣つて居る、其處が亞米利加の病院が支那風に出來て、日本の病院が西洋風に出來て居るのと同じ」だというのだ。

同仁病院とロックフェラー病院を眺めて較べれば、「如何にも日本は貧弱」であり「(アメリカは)如何にも裕福だと感ずる」。この印象の違いが新文化運動に影響を与え、やがて社会の風潮を左右することになる。

過去10数年、多くの日本人教師が大陸に派遣されたが、彼らの「大半は失敗して歸つて居る」。その背景には「金錢上の問題が澤山ある」。それというのも「僅かなものを與へて僅かな利�を取ると云ふことが過去の日本の或る種の人の考へ」だったからだ。これにたいし西洋は「隨分大袈裟のものをやつて又大袈裟な者を取る」。ロックフェラーが大きな病院を建設してやり、「更に是から大きな利�を取らと云ふの」がそれだ。

「其の結果、今の新しい文化運動の人々の頭は、日本は厭だといふ樣な印象を與へたのであります」。かくして「ドシドシ�育上から日本を疎外」し、「ドシドシ日本を排斥して行く」。「是が列國の支那文化運動に於ける(日本の)地位」だと、諸橋は説いた。《QED》


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