――「支那人は不可解の謎題也」・・・徳富(15)徳富蘇峰『支那漫遊記』(民友社 大正七年)

【知道中国 1790回】                       一八・九・仲七

――「支那人は不可解の謎題也」・・・徳富(15)

徳富蘇峰『支那漫遊記』(民友社 大正七年)

 「如何に名殘惜しきも、十二月六日午前十一時」、徳富は青島を離れ黄海を真東に向い、翌7日には「約三個月振りに、馬關に上陸」、「八日夜、最大急行車にて發す」。9日朝には神戸を経て、夜8時半東京駅着。その足で「予が青山草堂に還」り、前後86日間に及んだ旅行が終わる。

 以上で『支那漫遊記』前半の「禹域鴻爪錄」が終わり、後半の「予が旅行中の感想を、歸朝後追記したる」ところの「遊支偶錄」となる。

『支那漫遊記』の巻頭に配した「陳言一則」によれば、徳富の論説は彼が主宰する『國民新聞』に掲載され、その都度、「支那新聞の之を譯載したるもの一、二にして足らず」。そこで支那新聞の側から相当の批判があったようだ。かくて徳富は「希くは吾人が唯だ事實と信ずる所を、直書したるものとして容恕せよ、如何に其言は露骨痛切なるも、吾人の支那及び支那人士に對する、深甚多大の同情其物が、其の根本思想たることを識認せよ」と断わりを入れ、また日本人読者に向っても「我が邦人も亦た、吾人が支那僻に向て、若干の尋酌を與ふる所あれ」と“予防線”を張り、最後を「蓋し支那問題を解釋するの管鍵は、單に乾燥なる智識のみならず、又た眞摯なる同情に俟たざる可らざれば也」と結んだ。

 「遊支偶錄」は以上の視点に基づき「(一)前遊と今遊」から「(八六)多大の希望」まで、徳富の関心が赴くままに小項目を立て論じている。そこで、小項目に沿って読み進めることにする。]

 ■「(一)前遊と今遊」

 前回は日露戦争直後でもあり、交通の便も含め旅は困難を極めた。だが今回は日支双方からの便宜供与もあり、先ずは快適な旅であった。

 ■「(二)妄言と妄聽」

 先ず徳富は「支那に關する吾が智識の、年と與に、如何にも一膜を隔てゝ何となく齒痒さを覚えたるが爲めに、支那其物に接觸せんと欲した」からと、旅行目的を明らかにした。実際に足を運んだ結果、「眼前に支那其物を見、電報や、郵信や、新聞や、其他に於きて聞き得たる支那と非常の差別あるを感得したり」。俗にいう“聞くと見るとでは大違い”ということ。だが徳富は「敢て感得と云ふ」が、「推定と云はず、又た觀察と云はず」とする。

 ■「(三)社會の變遷」

12年前の前回の旅行は清国時代であり、「滿目辮髪にして、云はゞ辮髪是れ支那人の特色」だった。だが今回は停車場でも旅館でも、官庁でも市場でも、「あらゆる群衆の中に於て、殆んど辮髪を見出」すことは出来ない。女性の社会進出も顕著であり、ここからも「如何に清國が、中華民國に變化したるか」が判然とするだろう。

 ■「(四)壮年の天下」

12年前は「政府の要路は勿論、苟も世の中に幅の利けたる人物と云へば、概ね白髪の老人にあらざれば、紈袴の公子なりしに、今日は殆んど、新人物の世の中となり居るの觀あり」。いわば「老人の時代去りて、壮年の時代來れりと斷言するも、恐らくは速了の見にあらざる可し」。「何れの方面に向ても、支那は先づ青年の天下と云ふ能はずんば、壮年の天下と云ふを妨げず。予は此の一點に於て、支那が著しく進歩しつゝあるを嘉稱せざらんとするも能はず」。

■「(五)道路の改善」

 「支那人が道普請に骨を折りつゝあるは、北京のみならず、隨處の通邑大都に於て、之を目擊せずんばあらず」。徳富は、世代交代同様にインフラ整備も進んでいると見た。《QED》


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