――「支那人は不可解の謎題也」・・・徳富(11)徳富蘇峰『支那漫遊記』(民友社 大正七年)

【知道中国 1786回】                       一八・九・初九

――「支那人は不可解の謎題也」・・・徳富(11)

徳富蘇峰『支那漫遊記』(民友社 大正七年)

 杭州から引き返した上海で、徳富は3人の政客を訪れた結果、「支那の現時と思想界」の状況を「要するに支那の現時は、猶ほ戰國の當時の如く、思想混亂、鼎の沸くに似たり」と把握した。政治勢力は北京を拠点し「軍國主義を主とする北派」、革命派の伝統を継ぎ南方に基盤を置き「民權自由主義を主とする南派」、それに清朝再興を目指し「從來の孔孟主義を主とする復辟派」の3派が鼎立しているが、「若し支那の分裂を以て、單に思想の分裂より來るものと」するなら、それは早合点というものだ。

 それというのも「凡そ世界に支那人の如く不思議なる人種なし。極めて現實的にして、且つ極めて空想的也。極めて物質的にして、且つ極めて理想的也。儉約者にして、浪費者也。無頓着者にして、拘泥者也。損得勘定以外に、何物もなしと思へば、却て體面抔と鹿爪らしく、持ち出だす也」。国家としても個人としても「幾多の矛盾せる性格あり。若し支那人を見て、單に其の一端を捉へ、之を以て百事を律し去らん乎」。かくして「蓋し支那人は、複雜したる心理學的の資料也」。であればこそ、「其の眞面目を知るの難きは、恐らくは廬山の面目を知るの難きよりも難からむ」。

 とにもかくにも相手は人口比で日本の11、12倍で、その上に複雑怪奇極まりない振る舞いを見せるわけだから一筋縄でいく訳がないことを、先ずもって肝に銘じておくべきだ。

その辺りを宮崎滔天は「一氣呵成の業は我人民の得意ならんなれども、(中略)急がず、噪がず、子ツツリ子ツツリ遣て除ける支那人の氣根には中々及ぶ可からず」(「暹羅に於ける支那人」)と記し、勝海舟は「支那には機根の強い人が多いからネ。ズツト前を見通して何が起つたつてヂツトして居るよ。これはかういふ筋道を行つて終ひはかうなるものだくらゐの事はチヤンと心得てやつてるんだよ。そこをこちらから宜い加減に推量して、自分の周囲よりほかに見えない眼で見て、教へてやらうとかどうしようとか言つてサ。向ふぢやかへつて笑つて居るよ」(「戊戌の政変に際して」)と語ったのではなかろうか。

 「李鴻章の實子にして、其の面目宛然小李鴻章」の李經邁を訪問した徳富は、「其の機略、權數、人を呑むの慨、往々其の應接、言論の端に暴露す」るを感じたようだ。李は「共和政治は、支那に於て尚ほ三百年早しと」した後、日本との関係に就いて「歐亞に於ける、帝國的大同盟を夢想」している風であった。どうやら「議論は、當否は姑らく措き、極めて痛快」な李の振る舞いに感動したのだろう。上海滞在中に面会した「支那各方面の人物中、尤も多く予に印象を與へたる」2人にうちの1人が李經邁だったとのこと。李とは「極めて流麗なる英語にて對話せり」とのことである。

 上海滞在中、徳富は蔵書家で知られた何人かを訪ね書庫を覗いているが、その感想を「支那は流石に文字の國也。一方には革命騒動の眞中にも、他方には古書珍籍を蒐集して、自から樂しも者あり。而して流石に、書物の本家本元丈ありて、幾多の爭亂、兵火を經つゝも、尚ほ舊槧、舊鈔尠からず。所謂る古川水多しとは、此事也」と綴る。

 数日の上海滞在の後、北上して曲阜、泰山を見物の後、青島から帰国の途に就くわけだが、徳富は上海を「南方の要衝にして、然も列國合同の小共和國たり、四圍の壓迫なく、高天厚地、自由の空氣充滿したるが爲乎」と表現した。

 その上海で日本人は「一大勢力たり」。「兎も角も從前に比し、日本人は上海を�行闊歩しつゝあり。是れ現時に於ける、戰爭の影響なる可きも、亦國運増進の賜たる可し」。また上海は「支那に於ける、殆んど唯一の安全地帶」であるがゆえに、「支那に一事變ある毎に、上海は必ず膨張す」る。だから「日本の工業が、此地に勃興する暁とならば、更らに其の隆盛を見るの時あらむ」と将来を予想するのであった。《QED》


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