――「支那人は不可解の謎題也」・・・徳富(6)徳富蘇峰『支那漫遊記』(民友社 大正七年)

【知道中国 1781回】                       一八・八・念八

――「支那人は不可解の謎題也」・・・徳富(6)

徳富蘇峰『支那漫遊記』(民友社 大正七年)

徳富は満鉄経営の問題点を挙げながら、「滿鐵に必要なるは、創業の氣分也。然り創業の氣分なり」と説く。やはり初心忘るるべからず、である。さて、昭和20年8月15日の敗戦のその日まで、満鉄経営首脳陣は「初心」を貫いたといえるだろうか。

 10月10日、大連を発ち営口に向う。

 これまでの観察から、「眞の滿洲の富は、寧ろ關東州以北にある可し。更らに進んで云はゞ、奉天以北にある可し。或は長春以北にありと云ふが、尤も恰當の言ならむ」とする。「長春以北」といえば、その先に北満が控え、要衝のハルピンを東西に貫いて東清鉄道が奔り、東に向えばウラジオストック、西に向えば満州里からチタを経てモスクワ、ペトログラードに繋がる。ならば日本の進む道は革命ロシア(ソ連)を相手に北満を押さえ、東清鉄道に対し圧力を与え、あわよくば北満産業の大動脈であり生命線である東清鉄道を影響下に置くことあるはずだ。

 かつて満洲最大の交易港であった営口も、いまや「其の血液の大部分を、大連に吸ひ取られ」てしまい、「衰殘の形骸に過ぎざるが如し」。

 満州の2大河川といえば、北流してハルピン郊外を過る松花江と南流して営口で渤海湾に注ぐ遼河である。前者の流域一帯には「露國の勢力注入せられ」、後者流域は「英國の勢力區域」である。徳富は遼河を西に越えて遼西地方に入った後、海岸沿いに南下して中国本部と満洲を限る山海関を経て秦皇島に至った。

 日本は遼河の東側である遼東地方についてはともかくも、英国の影響下にある遼西地方に至っては関心を払わない。「遼河は實に支那に於ける、自然的大動脈也。此の大動脈を、如何にせんとする乎。而して此の大動脈の流域たる遼西を、如何にせんとする乎」と疑問を呈する。満州経営のリスクと将来性を考えるなら大連一辺倒は危険であり、遼西地方に対する考えておくべきだ、というのだろう。

 京奉線で天津を経由して北京入りしたのは10月13日午後9時近くだった。

 北京では紫禁城、文華殿、孔子廟、国子観、天壇などの旧跡を訪ねているが、それらの建物の落剝ぶりを眼にし、数年前に洪憲を名乗り念願の帝位に就きながら内外からの強い批判を受けて帝政を取り止め憤死した袁世凱の人物評を下している。

 「袁世凱は誤魔化を以て始終せり。死者に鞭つは、吾人の屑とせざる所なるも、彼が本性は、端なく此處にも暴露せらる。彼は根本的の施設家よりも、一時の間に合せ的の仕事師」に過ぎない。「彼の帝政も亦た、槿花一朝の夢たりし也。而して今後袁翁に代りて、支那を統一するもの、知らず何人ぞ」。

 北京では段祺瑞総理、馮国璋総統、段芝貴北京衛戍司令官、梁啓超財政部総長、曹汝霖交通部総長、湯化龍内務部総長、汪大燮外交部総長など当時の中華民国政府首脳と面談している。はたして彼らの中に「今後袁翁に代りて、支那を統一する」ことのできる人物を見い出すことが出来たのか。以上の要人には釋宗演も顔合わせをし、その際の人物評を『燕雲楚水 楞伽道人手記』に見ることができる。同一人物に対する徳富と釋宗演の評価の違いを知るのも一興か。

 先ず段祺瑞については、「小男にして、顔色黧黑、顴骨秀で、眼の玉きよろりとして、極めて落ち着きたる風あり。支那人には、恐らく珍しき寡默にして、且つお世辭の少なき男なる可し」。一見したところ、「聰明の人」なのかどうか判然とはしない。だが「多少意志あり、且つ自信ある人」のようでもある。「些か一本調子にして、鼻先強きに似たり」。以上は「唯だ余が印象」に過ぎない。徳富にとって段は期待できる人物ではなさそうだ。《QED》


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