――「支那人は不可解の謎題也」・・・徳富(1)徳富蘇峰『支那漫遊記』(民友社 大正七年)

【知道中国 1776回】                       一八・八・仲六

――「支那人は不可解の謎題也」・・・徳富(1)

徳富蘇峰『支那漫遊記』(民友社 大正七年)

 釋宗演が「遊支之途に上る」べく大船駅で東海道線に乗車したのが大正6(1917)年9月8日。1週間後の9月15日、徳富蘇峰は「支那漫遊を思ひ立ち」、「先ず京城へ向け發程」した。

 京城から奉天へ。さらにハルピン、長春、吉林と北上した後に南下して大連、旅順、営口、山海関、秦皇島を経て北京。北京では釋宗演と同じく当時の中華民国首脳陣――馮国璋総統、段祺瑞総理、梁啓超財政総長など――と面談している。北京郊外から張家口のまで足を延ばし、大同へ。北京に戻り、京漢鉄道で南下し漢口へ。長江を九江、南昌、南京、揚州と下り、上海で杭州に転じた。上海に戻った後、鉄路で北上し、徐州、泰山、曲阜、済南と廻って青島着。青島からは黄海を東に突っ切って下関へ。釋宗演に後れること2週間ほどの同年12月9日に旅を終えて帰国している。

 徳富と釋の旅は日程も旅程もほぼ重なっている。2人が共に旅先での出会いを楽しんでいる風だが、ここで興味深いのは同じ地域を歩き、同じ人と出会っていることである。一方は稀代の言論人、一方は円覚寺の高僧――それぞれが、どのような思いを抱いたのか。比較してみるのも一興だろう。

この本は「明治三十九年五月――八月の交」の旅行記である『七十八日遊記』(民友社 明治39年/【知道中国1562回】~【知道中国 1598回】)と同じように、旅先から送った書簡を基に纏めた「禹域鴻爪錄」と「予が旅行中の感想を、歸朝後追記したる「遊支偶錄」とによって構成されている。であればこそ徳富は、読者に向って前著『七十八日遊記』を参照して欲しいと綴ったに違いない。

巻頭の「陳言一則」によると、「本書の内容が、逐次『國民新聞』に掲載せらるゝに、支那新聞の之を譯載したるもの、一二に足らず」。だが「若し其言の非禮なるを咎めん乎、希くは吾人が唯だ事實と信ずる所を、直書したるものとして、之を寛恕せよ。如何に其言は露骨、痛切なるも、吾人の支那及び支那人に對する、深甚多大の同情其物が、其の根本思想たることを認識せよ」と記すのみならず、「我が邦人が支那僻に向て、若干の斟酌を與ふる所あれ。蓋し支那問題を解釋するの管鍵は、單に乾燥なる知識のみならず、又た眞摯なる同情に俟たざる可らざれば也」と断わっているところをみると、徳富の許に日本と支那の双方から少なからざる批判が寄せられたと考えられる。

では、どんな点が批判を呼んだのか。そこら辺りを想像しながら読み進むのも楽しみだ。

「禹域鴻爪錄」の冒頭を占める「東京より京城」の部分は割愛し、鴨緑江を渡り安東で安奉線に乗車したところから読みはじめたい。

明治39年も安奉線に乗っているが、当時は「玩具的輕便鐵道」で奉天まで2日かかったが、今回は半日あまり。「鮮鐵又滿鐵の支配下」となったからだろうが、「大連本位の滿鐵」からすれば安奉線は飽くまでも「裏街道なるも、若し奉天本位とせば」、いずれ安奉線が「表街道と云ふも不可なし」ということになるわけだから、いまのうちから整備しておくべきだ、と。列車は「巨大なる溶鑛爐の烟突、天を摩するあ」る本渓湖を経て、「旭日よりも尚ほ鮮美なる落日の、渺茫たる滿洲平野に没するを眺め」ながら奉天に到着した。

翌日、「清朝の太宗文皇帝の永眠所」に向う。「十二年前に比すれば、更らに荒廢す」。「往時を懷想すれば、今日の荒廢は、眞に一掬の涙なきにあらず。然も守陵の者、徒らに客に向て、案内料を強請する以外、何等の掃除も取締もせず、碧瓦黃甍、皆な人の掠め去るに任せ」たままだという。

当時、「奉天は今や漸く、南滿經營の中心點たらんとしつゝあ」ったのである。《QED》


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