――「支那人の終局の目的は金をためることである」――廣島高師(2)『大陸修學旅行記』(廣島高等師範學校 大正3年)

【知道中国 1713回】                       一八・四・初七

――「支那人の終局の目的は金をためることである」――廣島高師(2)

『大陸修學旅行記』(廣島高等師範學校 大正3年)

若者たちは郊外電車に乗り「獨乙醫工學堂」に向う。「支那人を限り入學を許すものでその設備等は我同文書院の比ではなく、彼等が極東殊に支那の經營には如何に高價な犠牲をも厭わぬこと」に改めて衝撃を受ける。そして教師を目指す高等師範學校生徒らしく、教室よりむしろ「小閑を利用して海外一歩の地に來つて榮枯盛衰の跡や白人の活動振りを見せたい」と、実地教育の必要性を訴える。つまり百聞は一見に如かず、ということだろう。

また「支那はその昔榮えた東洋の墓場で、某の社も寺も澆季の世となれば香たく人も空しく、懐疑と死の憐れなる子の信仰は蘆の上に作られたる四十がらの巢である、槿花一朝の榮を持ちたるが故に再び榮ゆと思ふ勿れ」と、「白人の跋扈」する上海から「國民の覺醒」を学ぶのであった。それにしても「支那はその昔榮えた東洋の墓場」とは、じつに正鵠を得た表現だと思う。

やがて南京見物を終え、広島高師の生徒たちは上海から北上し大連に向う。40時間に及んだ船中でのことだ。

大分出身の「金時計金指輪した好箇の紳士」が「一體日本人の仕事はやり方を誤つている」と口を開いた。辛亥革命以来の日本外交の「事なかれ主義」を批判し、「支那人はいくら助力してやつても有難がる人間ではないんですから」、たとえばフランスのように「機會を捕へてしつかり利權を擴大しなけりや駄目ですよ」。「長江沿岸なんかまるで英國のものゝ樣で」あればこそ、日本の「事なかれ主義の〇〇領事なんか到底御話になりませんなあ」。だが「この種の活動はまだまだ止みますまい」。「袁政府の基礎漸く成らんとするとき地方の暴民を使役して亂をする某國」もあるほど。だから「どれだけ遠慮したら彼等の御氣に召すのか、亞細亞のモンロー主義でも唱へなくては駄目ですね」と熱弁を振るい、また「非現実的な日本の宗敎が邦人の活躍を阻止する最大原因であると罵倒」する姿は、「切齒悲憤意氣當るべからざるものがあつた」そうな。

欧米列強が辛亥革命から中華民国建国後の混乱を好機として「國權擴張」に奔っているにもかかわらず、その列に加わらず独自外交を進める我が政府を「事なかれ主義」と糾弾し、この際は「遠慮」することなく、我が国も「國權擴張」に舵を切るべきだという主張のようだ。おそらく当時、隣国の混乱に同情し一衣帯水やら同文同種やらといった類のバーチャルなイメージで捉えて「亞細亞のモンロー主義」を唱える人々がある一方で、「金時計金指輪した好箇の紳士」のように隣国の混乱に乗じて「至るところの天地で演ぜられつゝある國權擴張」に努めよという勢力もあったということだろう。その後の歴史を辿ると我が国の対中政策は「亞細亞のモンロー主義」と「國權擴張」の2つの考えの間を揺れ動いたまま推移したように思える。これを言い換えるなら、大局観に立った確固とした政策を打ち出せないままに終始したといえる。

やがて一行を乗せた船は、「わが新植民地の一角に位して歐亞交通の中心點をなす大連」に到着する。とはいうものの実情は「邦人の經營が歐米人のそれに比して非常の見劣りがする」のであった。一行は「滿鐵の好意」で日露戦争の戦跡を訪ねるが、その日は「鴻業萬古に隱れなき明治大帝の御三年祭」であり、日本人住宅は当然のことながら「支那町の家々にも殘りなく旭日旗が掲揚せられて」ていた。そこで中国人が我が国に「忠誠を現し、早くも同胞化しつゝある事」に感激の思いを綴る。

だが、こういうのをお人好し、という。「支那町の家々にも殘りなく旭日旗が掲揚せられて」いる程度で、「忠誠を現し、早くも同胞化しつゝある」などと早合点してはいけないのだ。なにせ「支那人はいくら助力してやつても有難がる人間ではない」のだから。《QED》


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