――「支那人に代わって支那のために考えた・・・」――内藤(41)内藤湖南『支那論』(文藝春秋 2013年)

【知道中国 1740回】                       一八・六・初四

――「支那人に代わって支那のために考えた・・・」――内藤(41)

内藤湖南『支那論』(文藝春秋 2013年)

 内藤の弟子筋に当たる青木正児は『江南春』(平凡社 昭和47年)で中国人の日常生活における儒教と道教について、「上古北から南へ発展してきた漢族が、自衛のため自然の威力に対抗して持続して来た努力、即ち生の執着は現実的実効的の儒教思想となり、その抗すべからざるを知って服従した生の諦めは、虚無恬淡の老荘的思想となったのであろう。彼らの慾ぼけたかけ引き、ゆすり、それらはすべて『儒』禍である。諦めの良い恬淡さは『道』福である」と説いている。この青木の考えを、以下のように敷衍してみた。

 黄河中流域の中原と呼ばれる黄土高原で生まれた漢民族は、やがて東に向かい南に進んで自らの生存空間を拡大してきた。先住異民族と闘い、過酷な自然の脅威にさらされながらも生き抜く。こういった日々の暮らしの中から身につけた知恵の一方の柱が、何よりも団結と秩序を重んじる儒教思想だ。団結と秩序が自らを守り相互扶助を導く。だが獰猛無比な他民族、猛威を振るう自然、時代の激流を前にしては、団結も秩序も粉々に砕け散ってしまう。人間なんて、どう足掻こうが所詮は無力。そこで、もう一方の知恵の柱――なによりも諦めを説く老荘思想の出番だ。団結と秩序への盲従、つまり誰もが大勢に唯々諾々と迎合する情況を「『儒』禍」と、人の力ではどうにも動かしようのない自然や時の流れをそのまま受け入れることで自らを納得させる様を「『道』福」と呼んだのではなかろうか。

 毎度おなじみの林語堂は儒教と道教を比較して、「成功したときに中国人はすべて儒家になり、失敗したときはすべて道家にな」り、「儒家は我々の中にあって建設し、努力する。道家は傍観し、微笑している」と(『中国=文化と思想』講談社学術文庫 1999年)』説く。ならば中国人の体内には儒教と道教が渾然と宿っている。つまり中国人の建設と努力は、いつでも傍観と微笑に変わりうるということになるわけだ。

 考えてみるに、やはり内藤の「孔子の教」に対する理解は、抹香臭く陳腐極まりない道学者のそれから抜け出ていないように思えるのだが。

 次に「支那の平民的萌芽」の項を設け、平等について論じている。

 「支那のように一たび官吏となれば、体裁ばかり繕って、威張ることを能事とし、小民を圧制して恐嚇するのは、古代の野蛮の習俗で、兵力で人の地を取り、威力で脅した余風である」。そんな国でも「すでに共和国となり、平等を本義として、すべての制度をも建て、国民の先識者が早くも着眼した従来の情弊を矯正し、まさに萌芽しつつある文明の嫩葉を長育して行くのが、当局の責任である」。だが、最高責任者である袁世凱は「専制の夢を繰り返さんとするなど」、「実に支那国民を衰亡の悲境に導く罪人たるのみならず、また実に世界人道の公敵ともいうべきものである」と強く非難する。

 立憲共和を掲げ中華民国を打ち立てたものの、この国(というより漢族)の骨の髄にまで染み込んだ牢固たる旧い伝統を改めるのはどうすればいいのか。内藤は先ず「国是」という考えを持ち出す。

 「およそ一国の興るには、畢竟その国家を治めて行くところの国是がなくてはならぬ」。やはり「国家は大きな生物であって、固定した政策を執って少しも融通が取れぬということは、頗る不便な点があるのであるけれども、政治家の信念として、国是の方針としては、とにかく一貫したものがあって、そうして一時の便宜のためにそれを変えないというところの方針が無くてはならぬ」。だから「機会主義の誘惑」に負けてはならない、ということになる。

 「永遠に国家を安全に存立させようとするには、力めてこの機会主義を離れて、国是を一定しなければならぬ」のだが、やはり袁世凱の中華民国には国是はなかった。《QED》


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