――「支那人に代わって支那のために考えた・・・」――内藤(20)内藤湖南『支那論』(文藝春秋 2013年)

【知道中国 1719回】                       一八・四・仲九

――「支那人に代わって支那のために考えた・・・」――内藤(20)

内藤湖南『支那論』(文藝春秋 2013年)

内藤に従えば、中体西用、洋務運動、変法自疆など清末に繰り返された先進諸国模倣の変革が失敗した要因は、それらを提唱した知識人たちが先進諸国独自の伝統・歴史・文化を深く考えることなく、それらの国々の先進的な制度や技術を持ち込みさえすれば立ち遅れた清国を先進諸国並みに発展させることができると思い込んだことにある。敢えて言うならば知識人たちの“一知半解”に起因する、ということだろう。

確かに、この指摘は正鵠を得ているし、中国人と外国の進んだ制度や技術の関係を考えた場合、現在でも当てはまるといえる。

たとえば40年前の1978年末に�小平が対外開放に踏み切った前後、中国首脳陣は西側諸国の最先端技術を導入しさえすれば中国は毛沢東時代の遅れを一気に取り返すことができると考えたように思える。�小平にしてから、当時世界最新技術を謳われた新日鉄君津工場そっくりそのままの工場を建設しさえすれば中国も世界最先端の大規模製鉄工場を稼働・経営することができると思い込んだからこそ、日本側に新日鉄君津工場規模の工場を“おねだり”したに違いない。

だが、それは無駄だった。技術は目に見えず、手で触ることのできない文化――再三再四いう。文化とは《生きる姿》《生きる形》《生き方》である――の下支えがあってこそ成り立っていることが判っていなかった。いわば「自力更生」「為人民服務」といった毛沢東時代の文化から抜け出さない限り、異国の先進技術をモノにすることは難しいのである。

だが流石に中国である。パクリの伝統は特許権の垣根をいとも簡単に飛び越え、強引で巧妙な産業スパイ手法によって先進諸国企業が独自の先端技術を守るために設けた厳重な扉をこじ開け、かくてパクリは新幹線からステルス戦闘機まで。いまや空前の、臆面なきパクリ大国へと“成長”してしまった。敢えて極論するなら、1978年末以来の改革・開放の40年は恥も外聞も捨てパクリにパクリ捲った40年ではなかったか。この段階まで進むと、もはやリッパとしかいいようはない。だが共産党独裁だけは断固として譲ろうとせず、民主制度などの政治制度だけは絶対にパクろうとはしない。その“意固地で頑な態度”には、頭を下げざるを得ない。マイリマシタ、です。

閑話休題。

中華民国を率いる袁世凱は、たとえば油田や河川浚渫のために外資導入を企てるが、それは「ほとんど自己の存立を認めぬ借金である」。それだけに「一日一日と国運を底なき暗黒の抗に投げ入れんとしておる」と、内藤は見做している。このまま袁世凱の無定見な政治が続けば、中華民国の崩壊は必至ということだろう。そこで内藤は軍事を管轄する都統政治による地域を分割した形の政治を持ち出し、「支那人は大なる民族である、この民族は民族として統一されておる。また列国の支那における利権も随分錯綜しておる」から、「国民の独立という体面さえ抛棄すれば」、都統政治の方が「支那人民にとって、最も幸福」になるだろうと主張する。加えて「支那の官吏よりは、廉潔にかつ幹能力ある外国官吏」を任用すれば、政治・行政における費用対効果が飛躍的に高まるというのだ。

どうやら内藤は、この広大な境域と膨大な人民を治めるには国家というワクも統一政府も不都合と考えていたようだ。「何物を犠牲にしても平和を求める」という「支那人の国民性」に基づくならば、「郷里が安全に、宗族が繁栄して、その日その日を楽しく送ることが出来れば、何国人の統治の下でも、従順に服従する」ものであり、そんな人民を率いる「父老なる者は外国に対する独立心、愛国心などは格別重大視しておる者ではない」。やはり「支那の国民性」を理解しない限り、この国の動きも人々の振る舞いも判らないものだ。《QED》


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