――「支那人に代わって支那のために考えた・・・」――内藤(5)内藤湖南『支那論』(文藝春秋 2013年)

【知道中国 1698回】                       一八・二・初三

――「支那人に代わって支那のために考えた・・・」――内藤(5)

内藤湖南『支那論』(文藝春秋 2013年)

後者の「思想の潮流」については、古代から同時代までの歴史書の多くの記述を援用した後、「これを要するに支那の立憲政治の根柢となるのは、その輿論を恐れるという風習と、それから黄宗羲の作った『明夷待訪錄』の民主思想とその国の習慣たる平等主義」である。

「こういうものが従来の歴史上今度の支那の立憲政治の根柢となって、それがつまりいかなる形においてかその結果を現すことだろうと思う」。だが、「その結果が善くなるか悪くなるかということは、別の話であるから、ここでは省いて、しばらくここで終わって置く」と結んだ。つまり辛亥革命を機に誕生した中華民国における立憲政治の帰趨は判らないという主張になる。正直といえば正直だが、なんとも無責任な議論といわざるをえない。

内藤は「その輿論を恐れるという風習」が「要するに支那の立憲政治の根柢となる」と説くが、検討すべきは内藤が「支那人に代わって支那のために考えた」うえで言及する「輿論」と、我々が極く普通に考える「輿論」とは同じか否か、という点だ。たとえば『新潮国語辞典 ―-近代語・古語――』(新潮社 昭和40年)が「世上に一般に唱えられている議論。大衆の声。公論。せろん」と解く「輿論」と、内藤が「支那の立憲政治の根柢となる」と考える「輿論」とが同じわけはない。

 ここで内藤が挙げる「輿論」であれ「『明夷待訪錄』の民主思想」であれ、はたまた「その国の習慣たる平等主義」であれ、現代はもちろんのこと、内藤と同時代の大正初年の日本における輿論、民主思想、平等主義と同じと考えるのは大いなる間違いだ。かつて「中国には3種類のヒトしかいない。奴隷を使うヒト、奴隷、それに奴隷になりたくてもなれないヒト」といった趣旨を語ったのは魯迅だったと記憶するが、極端極まりなく不平等のままに数千年続いた伝統社会で近代的概念によって規定される輿論、民主思想、平等主義が機能していたなどと考えるのは笑止千万。世迷いごとといわざるをえない。

「3種類のヒト」に共通する社会基盤がない以上、輿論は生まれないし、民主という考えが人々の営みを律するわけがない。たしかに明朝を起こした朱元璋にみられるように、一介の乞食坊主であっても度胸を決めて機会を掴めば、幸運にも皇帝に就くことは可能だ。だが、だからといって、それが近代社会における平等主義を意味するわけではないだろう。

 万に一つ譲って内藤自身は正確に弁別したうえで論じていたとしても、輿論やら民主思想やら平等主義という近代的な概念を混用し、余りにも不用意に使うことは、やはり日本の輿論をミスリードすることに繋がる。無謀極まりない議論だ。

次の「革命軍の将来」だが、「清国の立憲政治」に関する講演から5ヶ月ほど遅れた明治44(1911)年10月17日から20日に亘って「大阪朝日新聞」に掲載されている。辛亥革命の発端となった武昌での武装蜂起が10月10日に起っているから、まさに混沌とした状況下である。当時の通信事情を考えれば、はたして詳細な現地情報が伝わっていたかどうか疑問だが、内藤は「武昌の革命軍の動乱は場所が場所だけで非常な警報を方々に伝えておる。しかし実際はまだそれほど大きくなかろうと思うのに、支那流に大変誇張された報道が多い」と始めた。やはり昔も「支那流に大変誇張された報道が多」かったわけだ。

続けて内藤は、「武昌で起こったということは地の利の上からいえば革命軍にとって最もよろしきを得ておる」。「今度もし革命軍が武昌に堅い根拠を据えて、それからして長江地方に段々拡がって行くということになると、なかなか重大なことになる」。それというのも革命軍は「大分皆新しい学問もしておれば、世界の形勢などにも明らかなものがやっておる」。加えて武昌は「支那の最も沃土すなわち肥えておる土地」を後背地とする要衝ゆえに、「この動乱はよほど警戒すべきものになる」と説き、革命の将来を予想する。《QED》


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