――「支那人に代わって支那のために考えた・・・」――内藤(3)内藤湖南『支那論』(文藝春秋 2013年)

【知道中国 1696回】                       一八・一・卅

――「支那人に代わって支那のために考えた・・・」――内藤(3)

内藤湖南『支那論』(文藝春秋 2013年)

だが立憲主義も失敗に終わり、あれから1世紀以上が過ぎた現在に至るも、立憲主義が確立された痕跡はみられない。最近になって共産党独裁の弊害を説き立憲主義を求める声がチラホラと聞こえてくるようになった。新しい主張を装うが、やはり内藤の説く「中等階級の健全」という肝心な点が蔑ろにされてはいないか。

清末、立憲主義を確立しようと始めた「変法自疆」運動は、革新派の康有為らによって「戊戌の改革」として実行に移された。明治維新に学べとばかりに進められたことから「百日維新」とも呼ばれるが、結局は清国中央・地方の両政府に盤踞する守旧派に阻まれてしまった。この清朝体制の終わりの始まりでもあった政治改革の失敗は1898年のこと。干支でいうなら戊戌。今年は「戊戌の改革」から干支で2巡目、つまり120年目ということになる。

ついでにいうなら来年は、近代中国で最初の本格的反日運動である五・四運動が起って100年目に当たるはずだ。

閑話休題。

やはり中国人は過激な拙速主義を信奉しているということだろう。

たとえば毛沢東にしても、「超英?美(イギリスを追い越し、アメリカに追い付く)」のスローガンさえ唱えれば大躍進政策は成功すると踏んでいたように思える。だが現実を無視して拙速に事を進め、無理に無理を重ねた高い目標故に大失敗し、数千万の餓死者をだしてしまう。すると毛は「我々には社会主義建設の経験が不足していた」と嘯いだけ。リッパと言えばリッパだが、責任を取る気など端っからあるわけがなかった。

ここで蛇足を加えるなら、毛沢東の居直りには曹操のそれを彷彿とさせるものがある、といっておこう。曹操は苦境を救ってくれようとした恩人一家を皆殺しにしながらも、「寧我負天下人、天下人不負我(オレは天下に背いても、天下をオレに背かせない)」と傲然と言い放ったのである。「我々には社会主義建設の経験が不足していた」と口にした時、あるいは毛沢東の脳裏には曹操の一言が浮んでいたかも知れない。

さらに付け加えるなら“懐刀”とも信頼していた彭徳懐が大躍進政策の誤りを指摘するや、躊躇なく詰め腹を切らせ国防部長から解任してしまった。この毛沢東の振る舞いは「泣いて馬謖を斬る」の故事にも通じているようだ。孔明の命に背き軍を進めたことで自軍に大打撃を与えたゆえに、愛弟子の馬謖を死罪に処した。かくて孔明は抗命は死罪に当たることを実例で全軍に伝え、命令への絶対服従を厳命したのである。まさに毛沢東は彭徳懐に厳罰を以て対処したことを党幹部全体に示すことで、自らが定めた大躍進への一切の批判を封じたのである。

�小平もまた拙速主義に奔ったようにも思える。「四つの現代化」を掲げさえすれば近代化は成功すると目論んでいたのではなかったか。だが�小平は毛沢東とは一色も二色も違っていた。彼は毛沢東が国民全般に求めた「為人民服務」――いいかえるなら社会主義的自己犠牲の精神――なんぞは完全無視。むしろ中国人が秘めた先祖伝来の根っからの商人性に賭けた。もう政府はなにもしてやらない。自分の事は自分でやれ。共産党批判さえしなければカネ儲けのし放題、というわけだ。いわば社会主義市場経済導入の大成功と急激な経済成長の背景には、強固な一党独裁と個々人の起業家精神(有態に表現するなら旺盛なカネ儲け精神)が認められるのである。

�小平から現在につながる路線は、かつての「中体西用」を模すなら「共体市用」――あくまでも共産党一党独裁支配を貫徹するための市場経済――と表現できそうだ。《QED》


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