――「支那の國ほど近付いてあらの見ゆる國は無し」――關(3)關和知『西隣游記』(非売品 日清印刷 大正七年)

【知道中国 1819回】                      一八・十一・仲四

――「支那の國ほど近付いてあらの見ゆる國は無し」――關(3)

關和知『西隣游記』(非売品 日清印刷 大正七年)

 じつは清朝八大親王の1人である肅親王善耆は、「男装の麗人」「東洋のマタハリ」と呼ばれた川島芳子こと金璧輝の父親である。母親は肅親王善耆の第四側妃。芳子には2人の妹がいたが、下の妹の愛新覚羅顕�は『清朝の王女に生まれて』(中公文庫 1990年)に金璧輝が川島芳子になった理由を、「父が日本人を利用して清の復辟を祈願していたため、当時父に取り入っていた川島浪速という日本人に、連れられて行きました」と記す。

 川島は“お雇い外人”として末期の清朝で警察官の養成に当たったが、その際、肅親王善耆やその娘婿に当たる蒙古王公のカラチン王と親交を結んだ。清朝崩壊後、北京を離れ旅順鎮遠町十番地に移り住んでいる。おそらく關和知らは、この鎮遠町十番地に肅親王善耆を訪れたのだろう。

 1912年、川島は肅親王善耆を擁して第1次満蒙独立運動を計画するが、日本政府の命令で計画は頓挫する。その後、1916年(大正5)年に第2次大隈内閣の進める「反袁政策」の下で第2次満蒙独立運動を画策するが、日本政府の方針転換と袁世凱の死で失敗に終わった。

 1922(大正11)年の肅親王善耆の死を『清朝の王女に生まれて』は、「父は北京をでる時、(清朝崩壊と亡命の悲哀を綴った)詩を作って、それっきり北京の土は踏みませんでした。復辟(退位した皇帝を再び復位させる事)運動にも失敗して、わずか享年五十七歳で、亡命の地旅順に在って最後の息を引き取ったのです」と記す。

 關ら6人は1917(大正6)年10月から12月にかけて旅行しているところからみて、一行が面会し当時の肅親王善耆は、第2次満蒙独立運動失敗の失意に落ち込んでいた頃と思われる。「日本人を利用して清の復辟を祈願し」ていた肅親王善耆である。はたして清朝復辟のために日本人と見たら誰彼となく「人を動かす」ような言辞を弄していたのだろうか。

 肅親王善耆の次は反日運動を考えたい。

 「支那人の日本人に對する惡感は依然として存在」するばかりか、最近では盛んになってきて、「往々にして我が威令を輕じ、時に反抗的態度に出づ」。たとえば「埠頭に於ける苦力のストライキ」であり、「荷馬車曳のストライキ」であり、「日本婦人に對する支那車夫の侮辱」などだ。その責任を考えると、やはり「日本に於ける我政府の對支方針が、單に支那の歓心を買ふを以て能事とする、所謂親善主義なるもの」にある。それというのも、日本側の微温的な対応が相手側に「帝國の威信を輕ずるの弊を誘致」してしまったからである。その一例として鄭家屯事件を挙げ、事件を曖昧な形で収束させてしまったことが「帝國政府自ら輕ずるの甚だしき一例」とする。

 鄭家屯事件とは、1916(大正5)年8月に日本人売薬店員と中国兵のささいな口喧嘩が発端となって遼寧省鄭家屯で起こった両国軍衝突事件。日本軍が同地を占領した後、当時の大隈重信内閣は中国側の司令官の懲戒に加え、南満洲・東部内蒙古の必要地点への警察官の駐在を要求した。じつは1900年の北京で起こった義和団事件(北清事変)を機に結ばれた北京条約によって、日本は欧米諸国と同じように自国民保護のために軍を駐留させる権利を得ていたのである。

 当時の両国関係を簡単に振り返っておくと、1915(大正4)年1月、日本が提出した対華21カ条要求をめぐる交渉がはじまったものの、日本はイギリスの抗議を受け、要求の一部を取り下げた。この対応が、日本がイギリスの圧力に屈したことであり、延いては中国側の日本に対する軽侮・蔑視的態度を誘発するとの考えが当時の陸軍から生まれる。その筆頭が、袁世凱に密着していた陸軍支那通の代表的存在の坂西利八郎らしい。《QED》


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