――「實に亡國に生まれたものは何んでも不幸である」――釋(2)釋宗演『燕雲楚水 楞伽道人手記』(東慶寺 大正七年)

【知道中国 1770回】                       一八・八・初四

――「實に亡國に生まれたものは何んでも不幸である」――釋(2)

釋宗演『燕雲楚水 楞伽道人手記』(東慶寺 大正七年)

 「東洋の兄弟國」というのは「宗教上人道上の事であつて他に何等の意味がある筈はない」というが、そうであったにせよ「東洋の兄弟國」という見方は誤りだ。

 釋宗演一行は「支那の正面玄關とも云ふ上海や天津から堂々と外所外所しい態度で乘り込むのではな」く、「朝鮮から奉天を經て橫合の勝手口より入」った。「支那の正面玄關」ではなく「橫合の勝手口」から入ったのは、「直ちに佛壇へ案内して貰つて祖師の位牌に禮拝し」、彼らの信仰心を知りたい。これが「此度一行の目的」とのことだが、随行者の二條は今回の行脚を機に「日本と云ふ暗い小さな異土より這出て、新しい大陸の空氣にふれた」かったという。

 先ず奉天ではラマ教寺院の黄寺へ。仏殿を参拝して、「堂内は薄暗い上に所狹く種々雜多の物が置かれたり、又ブラ下つたりして美しく整頓されてゐなかつた、古道具屋よろしくであつた」。黄寺を統べる大喇嘛は「蒙古の王族出で」あり蒙古人から「生佛の樣に畏敬」されているそうだが、「支那人の如きは眼中にない、蒙古人より劣等の人種と心得て、常に下に見てゐる」。その一方で、「日本人に對しては之と反對に非常な厚意と尊敬を以て接する」のであった。奉天在住の蒙古王族は支那人を「蒙古人より劣等の人種と心得て」いただけでなく、日本人には「非常な厚意と尊敬を以て接」していたという。彼の基準による優劣でいうと日本人、蒙古人、支那人なのか。それとも蒙古人、日本人、支那人だったのか。いずれにしても支那人が最低であることに変わりないようだ。

 北京では「道敎の本山とも云ふべき勅建の名刹白雲觀を觀に行つた」。「留守居の一老人」は「聖人らしい顔付で色々接待もなし又『靜』と云ふ事に就いて種々氣㷔を上げてゐた」。そこで禅道場を「見るといやはや汚い豚でも居さうな小さい家の内で二三人が布團を敷いて例の髷に少し顎に鬚のある乞食の樣な先生が居た、吾々一同が内へ這入つたら急に騒ぎ立てゝ、狼狽の氣味あつた肝心の『靜』は何處かに捨てゝしまつた容子であつた」と。日本からの禅の高僧の訪問を前にした「乞食の樣な先生」の「『靜』は何處かに捨てゝしまった容子」という慌てぶりがオカシイ。彼らにとって「靜」なんぞは、その程度の「靜」ということだろう。

 「清朝の菩提寺であつた」ラマ教の雍和宮では「實に奇抜も奇抜、寧ろ滑稽に類する神樣」の「天地佛又は和合佛とも稱」する像を前に、「夫れは金色燦爛たる醜陋なる魔像」だが、「ズツト進んだ頭で見るか又ズツト原始的の頭で見ると是も眞面目の神樣かの知れない」と、ラマ教に対する理解を放棄した風を見せる。

 「昔天子自ら五穀豐穣を祈禱さるゝ爲め森嚴な式が行われたと聞」く社稷壇を見物し、「追想の念にかられ」ると同時に、「周圍の花壇に豚尾を切つて蝶よ花よと逍ふ若い洋装の支那人輩と對照して觀て、凋落の悲慘を味」わった。王朝時代の栄華を想像することなど不可能なほどに寂れた社稷壇に対するに、「豚尾」、つまり辮髪を切った「若い洋装の支那人輩」たち。大きく変化する時代のうねりを感じたに違いない。

 郊外にある明朝歴代皇帝の陵である十三陵を訪ねた折りも、規模の壮大な設えは「帝王の威振が天迄もとゞいたかと思われる程だが、今その荒廢の状景に接すると目も當てられない憐さ」を痛感する。やはり「國破れて山河在りだ」と綴る。

 某日、財政総長の梁啓超を訪ねた。「未だ年齡は若くて四十を少し超えたらしく見えた」。梁啓超は「甞て鎌倉圓覺寺に隱れていゐた時、老師(釋宗演)の提唱をも度々聽いた事があると云ふ因縁をもつてゐる」。ならば夏目漱石と梁啓超は共に釋宗演の弟子に当たる。

 梁啓超に向って釋宗演は「支那に宗敎の健全なる發展が急務である」と説いた。《QED》


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