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――「支那人は不可解の謎題也」・・・徳富(4)徳富蘇峰『支那漫遊記』(民友社 大正七年)

【知道中国 1779回】                       一八・八・念四

――「支那人は不可解の謎題也」・・・徳富(4)

徳富蘇峰『支那漫遊記』(民友社 大正七年)

 じつは徳富訪問時、極東ロシアにもロシア革命の影響が及び、革命派の労兵会がハルピンの権力を掌握しつつあった。

ロシアの極東経営は日露戦争敗北以来、「正しく大頓挫をなせり。爾来哈爾賓の如きも、全く其の經營を中止したりと云はざるも、其の氣勢を減殺したるは勿論。而して今や大戰爭と、革命との影響を受けて、殆んど百事荒廢の姿なしとせず、而して勞兵會の勢力は、此處にも波及し、今や市の行政は、彼等の掌握する所となり」、東清鉄道の経営に口を差し挟み、銀行、商店をはじめとして市内の経済はマヒ状態に陥っていた。

 徳富が伊藤博文が凶弾に斃れたハルピン駅の現場に出向いて記念写真を撮影しようとすると、「勞働者らしき二三の巨漢」がやって来て邪魔をする。「彼等は全く鐵道に關係なき勞働者にして、革命以來、頓に其の勢力を得、何時も鼻息荒く、何事にも容喙す。蓋し是れ革命の産物たる、新現象の一と云へり」。兵士と士官の立場は逆転するなど、革命によって下克上が常態化した。「街頭に於て然り、料理店に於て然り、倶樂部に於て然り」。

極東の地がこのありさまだから、さぞや「本國の事想ふ可也」。混乱のハルピンの「治安は、我が日本の滿洲駐屯軍によりて、暗に保持せられつゝありと云ふも、不可なけむ。若し露國に識者あらば、之を感謝して可也」。確かに「現時哈爾賓の政權は、殆んど勞兵會の實行委員の手中に、歸しつゝある」が、「其の眞相は、噴火山頭にあるものと云ふも、過言」ではない。

 以上は旅の途次の「大正六年十月一日朝」に長春で記しているが、その後に「大正七年三月廿六日」の日付で、「レニン等激徒政府」の権力掌握によりヨーロッパ・ロシアは「獨逸に賣られて、單獨講和を締結し」た。かくて「西伯利の形勢、累卵の如く危し」。こういった緊急状況下にあって「我が帝國は雄兵を、極東に擁し」ながら動くことなく、「唯だ其の潰放四出の状態を傍觀しつゝあり。嗚呼是れ何人の責任なる乎」と記す。

 大正7年の我が国を振り返ってみると、やはり国内的には7月下旬から8月初旬にかけて富山で起きた米騒動であり、対外的には8月12日にウラジオストックへの上陸から始まるシベリア出兵――この2つの出来事がその後の日本の針路に少なからざる影響を与えたことになるが、シベリア出兵に関しては、徳富は早くから主張していたことになる。

 ここで徳富の旅とは離れるが、ロマノフ王朝版一帯一路構想の要である東清鉄道とハルピンの動きを、日本側から簡単に見ておきたい。

 大正6(1917)年の10月革命で臨時政府が崩壊した結果、東清鉄道のロシア単独管理時代は終焉し、新たに日米中ソが入り乱れた国際競争の時代に移り、ハルピンの管理体制も混沌とする。なかでも東清鉄道経営を巡っては、日米の間での争いが熾烈さを増す。

 日本は大正5(1916年)7月調印の第4次日露協約によって目指していたハルピンから南下する南部線の獲得は、ロマノフ王朝崩壊によって不可能になった。そこで中島正武少将、佐藤尚武ハルピン総領事、川上俊彦満鉄理事を中心とする「ハルピン・グループ」は、東清鉄道のホルヴァート管理局長を押し立てて反革命政権の樹立を画策する。これにシベリア出兵が重なり、日本の東清鉄道への影響力は拡大した。かくて日本政府は財政難に陥っていた東清鉄道への融資を持ち掛け、その見返りとして�南部線の軌道を満鉄仕様に改軌するか、さもなくばハルピンへの直通列車の運行。�満鉄との価格競争の停止を求めるつもりであった。だが、日本側の目論見は米中の反対によって実現しなかった。

 その後、米の影響力拡大を望まない連合国各国によって東清鉄道は連合国の共同管理下に置かれるが、3年半余に及んだシベリア出兵停止により共同管理体制も終わった。《QED》

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