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――「支那人に代わって支那のために考えた・・・」――内藤(39)内藤湖南『支那論』(文藝春秋 2013年)

【知道中国 1738回】                       一八・五・卅一

――「支那人に代わって支那のために考えた・・・」――内藤(39)

内藤湖南『支那論』(文藝春秋 2013年)

 長期低迷に苦しむ「経済改革を図るためには、今日において穀物輸出の禁を解く方針を立て」れば、「支那のごとき莫大な沃土を控えている国は」、「その産額が激増することが予期せらるるのである」。「要するに支那将来の財政の改革というものは、やはり世界の大勢にしたがって、従来の方針を全然改めること」が必要だ。これを言い換えるなら、対外閉鎖して一国で完結した経済体制を維持することは最早不可能だ。ならば対外開放に踏み切って「世界の大勢にしたが」えということになろうか。

 次に「幣制改革論」に言及して、「支那は元来商業上の習慣から」度量衡制度も通貨である銀の相場も各地で異なる。このような複雑極まりない制度を基礎にして動いて来た「財政の改革を決行して、中央に信用のある銀行を立てて、確実な兌換制度を行ない、また度量衡の統一をも図ったならば、これらの弊害はあるは除き去ることが困難ではないかも知れると思う」。じつは「支那人は商業が久しく発達しておった代りには、その商業上の計算は鋭敏であって、商業上に損の無い制度でありさえすれば、すなわち経済上人民の損失にならない制度でありさえすれば」、彼らは旧い制度を捨てることは厭わないだろう。加えて「政府と人民との間の取り引き関係は、官吏の私腹を肥やすことが止んで、そうして制度が正しく行われさえすれば」、幣制改革は必ずしも困難ではない。

 内藤は自らの「幣制改革論」が理想論に過ぎないことを知るかのように、「財政の根本も、やはり政治の根本と一致するのであって、今日のところでは中央集権主義の政治、中央集権主義の財政というものは成功する見込みが乏しく」、「袁世凱がやっても、あるいは革命党の人々がやっても、何人がやっても同じことであって、もし非常な天才、すなわちフランスの革命の時のナポレオンのような豪傑が出て、そうして政治の根本を天才に依って根柢から覆す」ことでもしない限り、「地方分権でやって行く」しかなさそうだ。

 辛亥革命によって立憲共和制の中華民国が誕生はしたが、政治や財政は旧態依然のままであり、これを立憲共和制に基づいて改革することは不可能であり、官民共々に利害が錯綜し、複雑な諸制度が絡んだ国家を中央集権で統御するには、「政治の根本を天才に依って根柢から覆す」ことが絶対条件だ。やはり「非常の天才」の剛腕によってしか、この国は生まれ変わらない――なにやら毛沢東の出現を予感させるが、甲論乙駁の後に“支那学の泰斗”が提示するのが英雄待望論だったとは・・・なにやら肩透かしもいいところだ。

これが「支那人に代わって支那のために考えた」ことなのか。もう少し現実的な論策が提示されるものと思い込んで読み進んで来ただけに、いわば落胆頻り。だが逆に、「非常の天才」が問答無用に非情なまでの大ナタを揮わない限り、この国の積年の病理は治癒しないということだろう。

 さて『支那論』も最終章の「五 内治問題の三 政治上の徳義および国是」に立ち至る。

 「支那のごとく国民の政治上の徳義心が、数百年間の悪政の結果、既に麻痺しておると云ってもよいくらいの国にあっては」、「自治制度では実際に適合しない点もないとは限らぬ」。「とうてい自治行政に依って成り立つことが出来ないほど国民の政治徳義が敗壊されておるものであるなれば、支那はとうてい共和政治でも立憲政治でも、今日世界の最良の政治として認められておるところの民主的政治を実行するに適しない。さらに進んで言うと、今日の文明国と同一な政治をしてはその国が治まらない」。結局は「徳義心なき官吏なり人民なり」によって行われる「極めて徳義の低い政治に依って維持しなければならぬ」わけで、「さような国はいかに改革してもとうていこれは存立すべき見込みが無いので」ある。「支那人に代わって支那のために考えた」挙句に・・・サジを投げるのか。《QED》

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