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――「支那人に代わって支那のために考えた・・・」――内藤(31)内藤湖南『支那論』(文藝春秋 2013年)

【知道中国 1730回】                       一八・五・仲三

――「支那人に代わって支那のために考えた・・・」――内藤(31)

内藤湖南『支那論』(文藝春秋 2013年)

歴史的に振り返ると中国の地方制度は「小区画制」と「大区画制」の別があるが、「大体において地勢並びに風俗からして」、「今日の大行政区」が「自然の道理に適っておるのである」。「官吏を増やせば行政が行き届くようになるという議論」があるが、「これはどこまでも誤りであると云わねばならぬ」。

じつは「支那においては官吏の生活は、(中略)名目はともかく、事実は非常に収入の多いものである」。そこで官吏の増員は「収支相償わない支那の現在の財政状態ではとうてい堪うべからざるものである」。だから増員は不可ということ。

じつは「支那の官吏の習慣として」、最末端の「知県のごとき小さい官吏からして」、地方行政の実務には通じていない。そこで「一種の官吏の下働きをする職業、すなわち胥吏というようなものがあって、実際の政務を執っておる」。ところが「この胥吏がまた代々世襲」するなどして地域の実権を握っていて「動かすべからざるほどに盤踞」している。地方行政の実務は彼らに任せるしかなく、中央政府派遣の官吏は手足をお飾りに過ぎない。

だから中央政府の行政意思を社会の底辺にまで行き届かせようとするなら、中央政府からの官吏の実務能力を飛躍的に向上させる一方で、地方に盤踞した胥吏を廃する必要がある。

さらに考えるべきは「官吏の政治的徳義の問題である」。「実はこれはいずれの問題にも関係し、またいずれの問題の根柢ともなることであるが、支那のごとく数千年来政治上の弊害が重なって、官吏という者はほとんど政治上の徳義が麻痺して、その弊害ということをも自覚しないような国にあっては、この問題を解決することは、容易ではない」。

ここでまたまた内藤から離れ、「官吏の政治的徳義の問題」について些かいくつかの事例を示しておきたい。

先ずはお馴染みの林語堂(『中国=文化と思想』講談社学術文庫 1999年)から。

●「中国語文法における最も一般的な動詞活用は、動詞『賄賂を取る』の活用である。すなわち、『私は賄賂を取る。あなたは賄賂を取る。彼は賄賂を取る。私たちは賄賂を取る。あなたたちは賄賂を取る。彼らは賄賂を取る』であり、この動詞『賄賂を取る』は規則動詞である」。

 ●「中国が今必要としていることは政治家に対し道徳教育を行うことではなく、彼らに刑務所を準備することである」。

 ●「官吏たちに廉潔を保持させる唯一の方法は、いったん不正が暴露されたならば死刑に処するぞと脅かしてやることである」。

 次は1960年代初頭の農村の状況を、

●「一九六三年、河南省などの農村調査の文献を見る機会があったが、文献が私に与えた印象は、陰惨でぞっとするものであった。富むものは富み、貧しい者は生活のどん底に押しやられている。農村の幹部は悪辣を極め、汚職、窃盗、蓄妾などは朝飯前のこと、投機買占めが横行し、高利貸しが流行り、一口でいえば、農村は生き地獄そのものである。

ところが、実態はもっとひどいものだと、毛沢東が文革の二年前から言いだした。農村の末端組織の三分の一がもう既に共産党の手中にない。社会主義の看板は掲げているものの、実際は資本主義が復活している。農村の幹部などで構成されている新しい裕福な農民階級が出現し、彼らは既に階級の敵の代理人と保護者に成り代わっている、と毛沢東は断定した」。(楊威理『豚と対話ができたころ』岩波書店 1994年)

 ここにみられる「農村の幹部」こそ、現代の「胥吏」ということになるだろう。《QED》

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