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――「支那人に代わって支那のために考えた・・・」――内藤(22)内藤湖南『支那論』(文藝春秋 2013年)

【知道中国 1721回】                       一八・四・念四

――「支那人に代わって支那のために考えた・・・」――内藤(22)

内藤湖南『支那論』(文藝春秋 2013年)

「将来の支那が君主制となるか共和制となるかは、最も重大な問題であって、これを解決するには、歴史の精神に通達しまた歴史の形跡を超越するの作用を要する」と切り出した内藤は、「貴族政治からして君主独裁政治に傾いて来た」ことが中国史の「重大な事実になっておる」と切り出した。

「支那の政治は独り貴族の団体の把握するところであって、平民はもちろん全くこれに与らない」。「天子というものも、その貴族の中のある一家族が、時々代わり合ってその地位を占め」ていたので、天子だからといって「侵すべからざる神聖のものという意味」ではなく、「各諸侯の上に特別擢んでた絶大の力並びに地位をもっておるというのではない」。「唐の高祖が家を化して国とすると云」っているように、貴族政治とは代々伝わる貴族が「一家を治める方法、すなわち家族制度のやり方を国に応用したに過ぎな」いものであり、「君主はその自分の一族並びにそのほかの名族とともに、一般人民を隷属として治めて行くにすぎないのである」。いわばく「君主の地位というものは、各階級の上に超越した所の絶大の権力でもって各階級を支配するというのではなく」、「貴族の間におって、そうして貴族とともに天下をもっておるというようなことに過ぎない」。だから「君主は大きく言えば、各貴族の私有物、小さく言えば、その一家族の私有物のような地位で」しかない。

ところが時代が下り唐の中頃から、「武人の勃興と名族の衰滅」という現象がみられるようになった。「支那においてはこの武人の勃興というものは日本と違って、大抵は卒伍から出身しておる」。それというのも、「元来武人を卑しんで、名族はそんな職業はせぬ」ものだから、「微賤な者から武人が出ると相場がきまるようになって来た」。

時代が下るに従って版図が拡大すれば、もはや貴族政治のレベルでは国は治まらなくなる。たとえば唐では各地方に藩鎮を置いて武人に治めさせるようになったが、力をつけた武人は我が子に、我が子がない場合には「乾児制度」によって養子を立て藩鎮の私物化を図った。唐末の五代十国(906年~970年)になると、「ついには天子にまでも、この制度が応用されて来た」。かくして名族は滅亡し、貴族政治は終わりを告げることになる――内藤の説を敷衍すると、おそらくこういうことだろう。

名族の滅亡によって「君主の形は漸々独裁的に傾かしめて来た」。つまり「従来は貴族の中の一人が政権を執るに過ぎなかった」君主だったが、貴族が無くなった結果、「万民の上に超越した地位になって来た。そうして事実上万民の上に君臨するというようになって来た」のである。それでも天子=皇帝の位に就いた者は自分の血統をデッチあげて祖先は古の名族であると言い張るような“節度”があったが、明朝を開いた朱元璋は「自分はどこの馬の骨か分らぬものであることを認めて、それを改めなかった」。つまり「天下を救うものは、いかなる種類の人でも天子になれるということ」になった。

君主の地位が変われば、「その下に立つところの臣僚の地位というものも変って来た」。それまでの天子は「自分の家を私有して、それを拡めて国とし、天下としておったのであるが、今度はもう頭からして君主は天下を私有することになった。天かというものは自分の私有財産のような形になって来た」。独裁君主の誕生である。

各役所の事務を「一々見て、そうして天子は昔の天子と宰相との地位を兼ねたような形にな」り、「それが清朝になってもますますその権力を君主に集める方に傾いて来て」しまったわけだ。「独裁制度としては、(中略)この支那の近世、すなわち明・清以後の制度というものが理想的の完全なるもの」ではあるが、「独裁君主の力が強くなって、君主の感情次第でいかなる事でもこれを処決することが出来るようになって」しまったという。《QED》

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