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――「支那人に代わって支那のために考えた・・・」――内藤(1)内藤湖南『支那論』(文藝春秋 2013年)

【知道中国 1694回】                       一八・一・念六

――「支那人に代わって支那のために考えた・・・」――内藤(1)

内藤湖南『支那論』(文藝春秋 2013年)

すでに取り上げた『支那漫遊 燕山楚水』(博文館 明治三十三年)(1642回~1507回)を著した当時、内藤は『萬朝報』の記者だった。その後、さらに研究を積み、明治40(1907)年には狩野享吉の推薦によって京都帝国大学講師となる。以後、記者時代の経験を背景に学問研究の成果に基づいた時局的評論を積極的に展開した。京都帝国大学から現在に連なる「京都の支那学」の系譜に大きな影響を与えているだけに、大正期を考える上では彼の『支那論』は、北一輝の『支那革命外史』や橘樸の一連の論考と同じように、やはり避けては通れない。これに加えたいのが辻聴花、中江丑吉、鈴江言一、さらには吉野作造か。

大正期の最初に取り上げるのは、内藤の『支那論』(文春学藝ライブラリー 2013年)である。同書は付録を含む「支那論」と「新支那論」で構成されている。前者は大正3(1913)年、後者は大正13(1924)年の発表だが、「新支那論」については後日に廻すとして、先ずは「支那論」から取り掛かりたい。付録に納められた論考は明治期、つまり辛亥革命に先立つ数年の清末混乱期を扱っている。発表時を考え、先ず付録の部分(表題は以下)を読んだうえで、本論の「支那論」に進むことにする。

1)明治44年5月:「清国の立憲政治」

2)明治44年10月:「革命軍の将来」

3)明治44年11月:「支那時局の発展」

4)明治45年3月:「中華民国承認について」

5)大正元年8月:「支那の時局について」

6)大正2年7月:「支那現勢論」

7)大正2年7月:「革命の第二争乱」

それにしても、である。書店の店頭で文春学藝ライブラリー版『支那論』を手にして先ず驚いたのは、表紙帯封に記された「100年前の大ベストセラー 近代日本最高の中国論」の惹句だった。些か大袈裟に過ぎはしないか。「100年前の大ベストセラー」はともかく、「近代日本最高の中国論」は、はたして正鵠をえた評価なのか。そんなわけで「近代日本最高の中国論」の最高ぶりをジックリと“堪能”してみたいと考えた。

先ず明治44(1911)年5月というから辛亥革命勃発の5ヶ月ほど前の大阪での講演を基に「大阪朝日新聞」(同年6月25日)に発表された「清国の立憲政治」だが、「近頃支那では立憲政治というものは大変に評判の好い語になっておる」と説き起こす。

「支那のような守旧国が立憲政治に対して興味をもつのは誠に不思議のよう」だが、じつは「守旧国であるが、また時としては非常に急進の国である」。では、なぜ「守旧国」が最近になって一気に「急進の方に大分傾いておる」のか。それというのも「殊に支那では立憲政治を一つの護符、大層結構なお守りのように考え、何でも立憲政治をやれば国が盛んになるように考えておる」。日本は明治維新を経て立憲政治を進めたゆえに興隆し、朝鮮は立憲政治を受け入れなかったため日本に併合され国が滅びたと、「非常に簡単に一刀両断に判断し」ている。そこで、「立憲政治さえやったら、支那の分割もなく、また決して滅びない、段々えらくなると信じておる傾きがある」というのだ。

「何でも立憲政治をやれば国が盛んになる」という短絡的実利主義こそ、林語堂が「勧善懲悪の基本原則に基づき至高の法典を制定する力量を持つと同時に、自己の制定した法律や法廷を信じぬこともでき」ると説く「民族としての中国人の偉大さ」に通ずるように思う(『中国=文化と思想』講談社学術文庫 1999年)。目の前の実利のためなら、さっきまでの原理原則など擲ってしまっても平気の平左・・・無原則の大原則であります。《QED》

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