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――「支那の國ほど近付いてあらの見ゆる國は無し」――關(1)關和知『西隣游記』(非売品 日清印刷 大正七年)

【知道中国 1817回】                       一八・十一・十

――「支那の國ほど近付いてあらの見ゆる國は無し」――關(1)

關和知『西隣游記』(非売品 日清印刷 大正七年)

 關和知(明治3=1870年~大正14=1925年)は九十九里に面した千葉県長生郡に生まれる。豪農だった父親の事業失敗によって苦学を余儀なくされたが、東京専門学校(現在の早稲田大学)へ。立憲改進党機関紙記者の後に米国留学(イェ―ル大学、プリンストン大学)。帰国後、『萬朝報』記者を経て『東京毎日新聞』編集長に。明治42(1909)年の衆議院補欠選挙当選以来、連続7回当選。

 「支那は今日に於て單なる支那に非ず、支那の民族、支那の社會、支那の國家は、其の盛衰興亡の係はる所、直に我が帝國の運命に關す」。殊に第1次世界大戦後の国際情勢の激変を考えれば、「支那問題は同時に帝國の死活問題」であるから、「支那を研究し、支那を視察する」ことは急務だ。かくして「余等同人昨秋相携へて」40日ほどの視察旅行を行った。『西隣游記』は、その際の記録である――と巻頭に綴る。

 「同人」の6名は大隈重信の養嗣子で早稲田大学名誉総長を務めた大隈信常を筆頭に、以下は衆議院・貴族院議員をつとめた横山章、報知新聞社長を経て東京市長を務めた頼母木桂吉、衆議院議員(1915年~45年12月)で日本タイプライター社長を務めた桜井兵五郎、陶芸家の原文次郎、それに關和知である。もちろん、ここに示した肩書は必ずしも旅行当時のものではない。

 一行は、朝鮮を経て奉天、大連、青島、旅順、長春、撫順、天津、北京、武漢三鎮、蕪湖、南京、杭州などを巡り、上海から帰国している。足を運んだ各地において早稲田大学で学んだ留学生の成功者から歓待を受け、これに在留邦人の早稲田大学卒業生が加わり、さながら“稲門同窓会巡り”の感なきにしもあらずである。

 たとえば北京では、「私立中國大學を參觀す、早稲田出身者の多數によりて經營さるゝもの、其組織、學制殆ど早稲田の專門部に則る、(中略)現校長は姚君と稱す稲門の出なり」。かくして文中、屡々「早稲田の勢力仲々に盛んなり」の一文にお目にかかることになるが、やはりゴ愛敬といっておこう。

 『西隣游記』は「西隣游記」、「隣游餘録」、「不可解の支那人」、「支那土産談」、「支那と列國の共同保障」で構成されている。これといって特徴のない視察報告記といった趣の「西隣游記」は敢えて割愛し、「隣游餘録」から読み進むことにする。

 先ず清朝の重鎮で旅順に逼塞する「清室の連枝、肅親王に謁」す。肅親王は大隈を見届けるや開口一番に、「父侯爵(大隈重信)は余が平常老先生として敬事する所、今卿に接す恰も兄弟相見ゆるの感あり」と。じつは肅親王と大隈重信の関係は「未見の舊識」だった。にもかかわらず、「恰も兄弟相見ゆるの感あり」である。すかさず關は「辭令の妙人を動かす」と綴る。とかく日本人は彼らの「辭令の妙」に簡単に乗せられてしまう。要厳重注意!

 「支那の時局」に関して肅親王は、「中國今上下を擧げて道義退廢人倫地に墜つ、斯の如くんば遂に亡國の運を免れず」。というのも「南方は徒に西洋思想の直譯的に流れ、空論自ら悦ぶもの到底國家を經緯するに足る無し」。一方の「北方は全然大義名分を辯ぜざる野心家の集合にして利己以外の何ものをも有せざる賊子なり」。南北が対立抗争しているものの、「南方の武力は到底北方に敵す可からず」。だから北方が武力で「壓迫せば南方は遂に屈服すべし」。だが、そうなったらそうなったで、「北方派は必ず内に軋轢を生じて互いに紛爭を事とする」。だから「中國の統一は容易に望む」ことはできない。

 だが「大旱の後には時雨の到るが如く」に「國内の擾亂其極に及べば大義名分を明らかにし、國民治を望むの念自ら興起すべく、統一の事業は是によりて成」るはず――だが、「辭令の妙人を動かす」ような肅親王の見解である。はたして信を置いてもいいものか。《QED》

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