第7回もうひとつの戦争展TOP
                                 はじめに
             皇室は日本の宝
                                         「もうひとつの戦争展」企画委員 井上寛康
 昭和天皇は生まれながらにして天皇であられた。 私心というものがなく、いつも我が国の繁栄と国民の安寧を
御心にかけておられた御方である。 台風や地震で災害を蒙った県知事などが上京すると必ず皇居に呼び、被害
の状況や復興の様子をお訊ねになった。 大東亜戦争で戦死した兵士やその遺族に対する敬意を忘れず、靖国
神社親拝の御意向を隠れになるまで持ち続けられた。 戦後、御自ら全国巡幸を発表された。「一日も早く全国を
まわり、一人でも多くの人と語り、すこしでも広く歩いて、なぐさめたりはげましたりしていきたい。日本の復興は一
重に国民の力によるものだから、一人一人によくたのんでこなければならない」と仰せになって、昭和二十一年二
月からお始めになられた。適当な宿泊所がなければ校舎や客車に御休みになった。 陛下は沿道の人々の歓迎
に応えるため御召列車の中で殆んど立ち続けておられた。 陛下は人が見ていても見ていなくても真心をもって国
民に接せられた。 大好きな相撲も国民がこの時間は働いているからと仰って、五時を過ぎなければ決してテレビ
をおつけにならなかった。
 このような御方であったから、大東亜戦争終戦のとき陛下の御命令一つで過激将校は矛を収め、陛下を裏切る
重臣は一人もいなかった。 マッカーサー連合国総司令官も一度の会見で昭和天皇に敬服した。
 我が国の天皇は、威厳と徳をもって立つ君主である。 他国の君主は人民の中から武力で上がり詰めたので、
わが身を国民から守るために堅固な城に住んだ。 それに比べ京都に残る御所は無防備な宮殿に過ぎない。 現
在まで百二十五代連続と続く万世一系の皇室は国の始まりから君主であり、武力に依らず威厳によって皇統が維
持されてきた。絶大な権力を掌握した武将たちも決して天皇に取って代わろうとはしなかった。 天皇を国の中心に
戴く我が国は、中国大陸における王朝の交替時のように人口が何分の一にも激減するような凄惨な闘争は生じな
かった。 世界に類のない穏やかな君民一体の統治体制を造り上げて来たのである。
 明治天皇、大正天皇、昭和天皇そして今上天皇が第一に御心に掛けておられることは皇祖皇宗への真剣な祈り
である。 元旦の四方拝から始まって年に二十数回の祭祀を自らなさる。 天皇陛下は籾を播き、苗を植え、刈り取
った稲を皇祖皇宗にお供えなさり、皇后陛下は蚕を御手ずから育てて神々に捧げ、国民を代表して国の繁栄をお
祈りされている。 伊勢の内宮の御祭神である皇祖天照大神は天皇家の御祖先であるが、国民もまた伊勢の神宮
にお参りする。 国民が君主の御祖先にお参りすることなど、外国にはない。
 君民一体となって国の祖先をお祭りし国の安全と平和で豊かな暮らしを祈って来た。これが我が国の国体である。
 今上陛下は神々への祈りや英霊の鎮魂に取り分け熱心であられる。 遥か神代の時代から受け継いで来た豊で
幸せなこの国を、子々孫々に伝えたいと切に願っておられるからではなかろうか。
昭和天皇古希の御製
 よろこびもかなしみも民と共にして年はすぎゆきいまはななそぢ
 このような天皇を持つわが国は幸せである。