【知道中国 300回】〇九・十・三一
「中華民國國民政府主席、行政院院長汪精衛閣下」

           『新中国の大指導者 汪精衛』(山中峯太郎 潮文閣 昭和17年)

 

「昭和十六年六月十七日、梅雨空も晴れて、新緑爽やかな美しい朝だつた」。「中華民國國民政府主席、行政院院長汪精衛閣下は新中央政府成立以來、本邦各方面より寄せられた好意に答ふると共に、日華両國間の協力に関し我が方要路と懇談のため」東京駅に到着し、

出迎えの近衛首相と握手する。「非常時日本を背負ふ青年宰相と新生中國を荷ふ若き元首が協力邁進を誓つて、日華提携の久遠の礎石を築く、聖にして厳なる東亞再建の握手である」。

「明くれば十八日朝、宮中參内の畏くも榮えある行事を控へ、緊張の心身をモーニング、シルクハットに威儀を正した汪主席は」、「漲る光榮の感激に面を輝かし」「宮城に向かつた」。

 「畏くも、 天皇陛下には陸軍式御軍装に大勲位副章を御佩用あそばされ、百武侍從長、蓮沼侍從武官長以下を隨へさせられて、御車寄に出御遊ばされ、御親しく汪主席への畏き御握手を交させ給ふた」。「兩陛下には、(中略)ついで汪主席と御共に、宮中千種の間に玉歩を運ばせ給ふた」。次いで豊明殿での「千代八千代かけて日華國交不易を誓ふ御盛宴」である。「畏くも、 天皇陛下には御着座の御姿にて、右手に三鞭酒の玉盞を擧げさせられ、汪主席の勞を厚く犄はせられ、 皇后陛下、御臨席の各皇族殿下を始め奉り諸員はこれに和し奉つた。汪主席は御殊遇に感激措く能わず、杯を高くかゝげ隨員これにならつて永遠に搖るぎなき兩國國交を誓つた一時は、汪主席の生涯に、これ以上の感激はなかつた」。

 一連の公式行事の合間を縫って、汪は「私人」として、ハノイからの脱出を手配してくれた山下汽船の山下亀三郎社長、「心の慈父」として慕う頭山満を訪問。さらに「留學生時代に師事した故犬養木堂翁」の「靈前に額づ」き、「若き留日學生汪兆銘が、法政大學で薫陶された恩師、當時の校長故梅津謙次郎博士と同敎頭富井政章男の墓参に赴いて、師恩に深く頭を垂れた」のだ。

 対米開戦か和平交渉か。時まさに国運を左右する最終局面を迎えていた日本であればこそ、このようにして「中華民國國民政府主席、行政院院長汪精衛閣下」を迎えたのだろう。

 この本は「われ等は今日の常識として、この汪精衛氏の人格と生涯を知らなければならない。中華民國の新建設者である汪氏について、日本人が無知であつてはならない」とする著者が、「汪精衛氏の人格と生涯を、近代支那の動搖と共に叙述したものである」。

 「汪精衛氏五十餘年に亘る波瀾多き生涯を知ることは、近代支那の動搖と推移を知ることである」と考える著者は、孫文に師事し過激な革命家として出発した汪が、「蔣介石を當國の最高地位に据ゑ、自分は政務と黨務と擔任して、介石を極力支援」するが、「抗日は必ず聯ソであり、聯ソは必ず容共の運命にあ」り、抗日戦争への道を突き進むなら、「この戰爭は必ず擴大し、必ず長引びき中日双方ともに破れ傷つき彼等(共産党とソ連)の犧牲になつてしまふ」ことを苦慮し、遂には蒋介石と袂を分かつに至る経緯を詳細に描きだし、「汪主席の抱負と今後の進展に對し、われ等は大東亞新秩序の建設の爲に協力し、相共に最後の勝利を、必ず獲得しなければならないのである」と、この本を結ぶ。

この本出版から3年ほどの後、汪とその同志は「漢奸」として断罪される。当時の日本が「中華民國國民政府主席、行政院院長汪精衛閣下」にどう接し、彼等をどう見ていたのか。60有余年後のいまでもなお、「日本人が無知であつてはならない」・・・断じて。