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1966年8月18日、毛沢東は北京の100万人の紅衛兵を天安門広場に集めて接見し、文革の狼煙を上げた。この機会を逃すまいと、共産党中央と国務院(政府)は「文革を参観し、革命の経験交流を」を掲げ、全国の若者(大学・高校の学生と若手教職員)を北京に集めた。狙いは文革の全国への拡大。大学生は全員、高校生は10人に1人、教員は大学では学生50人、高校では100人当たり1人の割合で北京行きが認められる。旅費・滞在費・食費は無料。これが「大交流」とも呼ばれた「大串連」だった。だが、とどのつまりは毛沢東から“お墨付き”を与えられての、アゴ・アシ付きの勝手気侭なパック旅行だ。 若者満載の列車で北京へ向かった彼らは文革の経験を交流・・・効果覿面。北京で過激に振る舞うことの正当性を覚え生硬な功名心に駆られた若者は、「保衛毛主席」を心に刻み故郷に戻り、気に入らない大人を文革への敵対・破壊者として厳しく吊るし上げ血祭りだ。北京や上海の過激派は文革指導のためと称し各地に赴く。旅の往復の道すがら毛沢東革命を学ぼうと、革命の原点・井岡山、聖地・延安、毛沢東の生家がある韶山などを回り道もした。この本は、そんな体験をした若者たちの回想や当時の日記によって構成されている。 彼らは自分たちで「全国範囲通行証」を謄写版印刷する。これさえあれば、汽車の旅は全国何処までもタダ。一般的な旅姿は、男女の別なく軍服で腰の辺りを太い皮ベルトでギュッと締める。軍服はヨレヨレであればあるほどに革命的でカッコよく見えたそうだから、誰もが“ヨレヨレ度“を競う。女の子の髪型は「造反頭」と呼ばれた短髪の変型おかっぱスタイル。これで右手に持った「紅宝書」、つまり『毛主席語録』を胸の中央に抱えて肘を張り胸を反ると、前髪がヒラリと額に掛かる――世界は我が手中に。自己陶酔の極みだ。 「お前らの文革は間違っている」と指導者ヅラをする都市の紅衛兵に対し、「お前らに威張られる筋合いはない」と地方の党幹部・労働者・農民・紅衛兵が反発し混乱を呼ぶ。無賃乗車の若者の輸送を最優先すれば、勢い鉄道による物資輸送は停滞し国家経済に大打撃を与えてしまう。そこで66年10月からは毛沢東の長征に学べと徒歩旅行が奨励される。このまま続けたら混乱が拡大し、毛沢東にとっての権力奪取という文革本来の狙いが吹き飛んでしまいかねない。そこで67年春、毛沢東は大串連中止を打ちだす。若者にとっての夢のようなアナーキーな一瞬は終焉を迎え、若者は大人の政治に翻弄されただけだった。 中学1年で大串連参加の女性は、「個人であれ国家であれ、ある意味で大串連の影響を今もなお、ずっと引きずっています」と綴る。懐旧、歓喜、悔恨、悪夢、それとも懺悔。 |