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その日、北京の空港にも数センチ大の白い綿のような浮遊物が乱れ飛んでいた。北京の暮春の名物で知られる毛白楊の熟した実が綿のようになって空中に飛散した柳絮か、それともアカシヤの花粉か。杜甫は「顚狂なる柳絮は風に随って舞い、軽薄なる桃花は水を逐って流れる」と「漫興詩」に詠んだが、そんな優雅で酔狂な気分にはなれない。乾燥した汚れた空気に綿状の浮遊物が加わり、確実に喉を刺激し、咳を誘う。暮春の名物も一転して環境問題化する。そこで最近では遺伝子を組み換え、柳絮の飛散しない毛白楊の研究開発が進む。いささか無粋だが、確かに環境汚染は避けられるし、咳防止に繋がるはずだ。 空中をフワフワと舞う白い浮遊物を眺めながら、空港の端に置かれた海南航空の双発ジェット機に乗り込む。定員は32人。爆撃機製造で知られたドイツのDORNIER社製だ。途中、機内からみえる大地には緑は極めて少ない。時折、山の稜線をうねうねと走る万里の長城が見える。1時間を過ぎた頃だろうか。黄河を目にした時には「あれが中国文明の母なる大河か」と思わず興奮。だが、落ちつい眺め直すと、予想以上に水量の少ない黄色い河でしかなかった。遥か太古の昔、この大河は「河」と呼ばれていたというから、おそらくチベット高原に発する流れが清らかな流れとなって滔々と東に向っていたはずだ。いつの頃からか、この大河流域の緑が激減し、赤茶けた黄土を削りながら流れるようになり、「黄河」と呼ばれるようになったとか。 「河」から「黄河」へと変化を誘った要因は人口増加による焼畑農業の拡大、あるいは厚く葬ることを奨励した儒教による葬儀、つまり気の遠くなるような年月をかけて成長した巨木を伐採しての棺作り・・・なにせ中国の棺はとてつもなくデカイ――かくて大地に緑は消え、見渡す限りの黄土になる。そのうえ黄土は凝固する力が弱く、大木の根を支えきれないともいわれる。だから大木が育たずに消え去った。あるいは黄河と黄土高原に育まれた黄河文明は、その出発から環境破壊という宿命を背負わされていたのかもしれない。 機体が降下をはじめると、まるで月世界はこんなものではなかろうかと思える光景が目に飛び込んでくる。茶色の段丘がどこまでも続く。緑はじつに疎らだ。黄色の大地の肥沃度は高いが崩れやすく、夏の嵐雨に山肌は大きく削り取られ深い渓谷を形作り、作物も家屋も流し去ってしまう。侵食の危険を防ぎ農作物を護るため、大地は段丘状に造成されている。この、宋代以前に考案されたとみられている農地作りによって、冬小麦や棉を軸とする黄土高原の農業は営まれてきたといわれるが、過度の耕作が段丘の頂にまで行われ、植生に覆われていた土地を開発した結果、黄土高原は月世界のような不毛の大地に変じたらしい。いずれにせよ、この月世界と見紛う不毛とも思える大地の一角で、毛沢東は共産党を手中に納め、天安門への一歩を踏み出したことになる。 北京離陸が12時40分。ほぼ西南に向かって飛んだ飛行機が延安空港に着陸したのは14時頃だ。陝西省政府直轄の国有企業集団である西部機場集団が経営する延安空港に駐機する機体は一機も見当たらない。それだけローカル色が強く、なんとも長閑な風情だった。 空港ロビーをでると広場には「紅色聖地 魅力延安」の巨大看板が1つ。市街地に向かう。かつての革命の聖地は、毛沢東革命のテーマパークと見紛うばかり。(この項、続く) |