【知道中国 273回】〇九・八・三一
ミャンマー東北部の《漢族の世界》

 8月に入り、ミャンマー東北部の果敢特別区でミャンマー政府軍と果敢民兵(民兵と報じられるが、果敢民主同盟軍ではなかろうか)との間で軍事衝突が繰り返され、果敢族の1万人以上が難民となって中国側に越境避難。果敢族を華裔(中華民族の末裔)と看做す中国側は難民救済を進める一方、ミャンマー政府に「国境地帯の安全の維持を要求する」と共に事態の進展に懸念を表明したとのことだ。1988年のクーデター以降、ミャンマー軍事政権は国内の反政府勢力である少数民族に自治を与えることで反政府軍事活動の停止を求めた。果敢族も、この措置に応じ果敢民主同盟軍なる自衛軍を持つ果敢特別区として一種の自治政府として現在に到っている。

果敢族(Kokangese、或はKokan-Chinese)は自らを明朝最期の皇帝・桂王を護り南下した明朝の遺臣の末裔とする。清朝体制が確立することで中国には戻れず、現在の地であるサルウィン渓谷周辺に定着せざるをえなかったということだろうが、辺境防備に明朝から派遣されながら前線から離脱して現地化した兵士の末裔も少なくないだろう。というのも数年前、ミャンマー東北部で中国式の墓を調査した際、その多くに「我が祖先は元は南京の人。辺境防備の為に明朝から派遣され・・・」といった類の碑文が刻まれていたからだ。彼らは古いタイプの中国語を話すが、実際に現地で彼らにインタビューした経験からして、現在の中国語でも十二分に意思疎通はできる。つまり彼らは国籍の上ではミャンマー国民だが、漢族ともいえる条件を備えているのだ。果敢族と名乗るわけは、「果断而勇敢」である自らの気質に拠るとも、「果」はシャン語で「九」、「敢」は「ヒト」を表すことから同地区が「九軒の家」から出発したとの伝説に拠るともいわれている。

果敢族は元来は農民だったが、この地が峻厳な山岳と切り立った渓谷に囲まれた天然の要害であり、中国本部とミャンマー中央部、さらに東南アジア、インド、中東、西欧世界を結ぶ交易ルートの要衝であったことで、後には通商ルートを押さえ今日に到っている。主力産業のアヘン業者の中には、下放先の雲南から越境・定着した元紅衛兵もいるようだ。

ところで果敢特別区の南には、清朝の弾圧を逃れたPanthayと呼ばれる漢族回教徒の末裔が住み、中国語を話す。その南に位置し、東北部最大の都市であるラシオ(漢字で臘戍と綴る)にはいくつかの漢族系仏教寺院や幼稚園から高校まで2000人規模の生徒を擁する漢族系の学校が数校あり、街では普通に中国語が話されている。敢えて表現するなら、そこはミャンマー東北部の山中に忽然と出現した漢族の都市といった風情。ラシオから西南にミャンマー第2の都市・マンダレーがある。その間の直線距離約300キロを走ったが、沿道のレストラン、ガソリンスタンド、土産屋では中国語でなんら不自由なし。途中でインタビューした何人かの農民まで「我が祖先は雲南出身で・・・」と中国語で話すほど。つまり、この地域はミャンマーとはいうものの、広い意味で《漢族の世界》ということだ。

であればこそ中国の改革・開放以後、中国(雲南)との結びつきを一段と強めた。俄か成金の中国人用にバーやカジノ建設され、中国からの出稼ぎが労働者が参入し、果ては貧困家庭の子弟が越境し果敢側の学校で学んでいたとしても、なんら不思議はないだろう。

今次衝突の原因が何であり、どのような形で決着するかは目下のところは不明。だが、このような民族構成の社会が衝突の根底にあるだろうことは間違いなかろう。