|
||
『開天日記 1949』(黄献国 北岳文藝出版社 1999年) この本は1949年1月1日から建国式典前日の9月30日までの274日間の動きを、毛沢東に率いられた共産党の快進撃を柱に日を追って綴った権力興亡のドキュメントである。 権力の階段を頂点を目指し駆け上ってゆく毛沢東と彼を支える幕僚たち。対するは権力の頂点から無惨にも真っ逆さまに転がり落ちる蒋介石と生き残りの道を必死に模索する部下たち。「和平」「和解」を目指し両者の間を周旋しつつ、最終的には共産党と合作し中華人民共和国建国への道を選択することになる民主諸党派に知識人――それぞれが千変万化・変幻自在の動きをみせながら、時代は49年10月1日の天安門へと雪崩れ込む。やがて一時の安堵の時が過ぎ再び疾風怒濤の時代へと突入するのだが、それは、まだ先のこと。 49年1月1日。南京の総統官邸に国民党と中華民国政府要人が続々と集まり、元旦の宴がはじまる。やがて蒋介石の元旦文告が告げられるが、その最後は「(内戦での)和平が実現するなら、個人の出処進退に拘るものではない。ただ国民の民意を思い・・・」と結ばれていた。蒋は総統退位と総統再任の意思のないことを告げた。表向きだけだが・・・。 同じ日、河北省の寒村のとある農家で毛沢東は燃え盛る炎に暖をとりながら、共産党幹部と共にラジオから流れるアナウンサーの声に耳を傾けていた。新華社が「革命を徹底的に進めよ」と題する毛の新年献辞を報じているのだ。「中国人民は偉大なる解放戦争の最後の勝利を勝ち取ろうとしている。この一点については、もはや敵ですら疑うことはない。反革命の戦争期、国民党は人民解放軍の3倍半の軍隊を擁していた。解放戦争最初の年、進攻する国民党に対し、解放軍は防御に回った。翌年、戦争は根本的な変化をみせる。大量の国民党正規軍を殲滅した人民解放軍は南と北の戦線で防御から進攻へと転じ、国民党は攻勢から防御へと転ぜざるをえなくなった・・・」 防御、対峙、反攻と、「解放戦争」は毛沢東の描いた絵図の通りに推移したようだ。46年半ばの国共内戦開戦時、共産党と国民党の兵員数をみると120万人対430万人(1対3.85)。これが1年後の47年6月には195万人対373万人(1対1.9)。さらに1年が過ぎた48年6月には280万人対365万人(1対1.3)で建国3ヶ月前の49年6月には400万人対114.9万人(1対0.3)――4倍近くあった彼我の差は、3年の内戦を経て完全に逆転した。というのも、傅作儀、胡宗南などが率いる国民党軍主力部隊が共産党への投降の道を選んだからだ。櫛の歯が抜けるように弱体化する国民党軍に対し勢いづく共産党軍。彼我の激変する戦力差を、著者はリアルに描き出す。傅ら投降した国民党軍幹部をユン・チアンは『マオ』(講談社 2005年)で「冬眠スパイ」と告発するが、彼らの投降を司令官が人民の側に立ち麾下の部隊を挙げて蒋介石に叛旗を翻したと看做す共産党は「起義」と呼ぶ。「冬眠スパイ」であったにせよ、それと気づかずに虎の子の兵力を与え、戦略的要衝を防衛させていた蒋介石の“不明”はやはり糾弾されても仕方のないことだろう。 民心を得たからこそ毛沢東は天下を己の掌中に納めた。一方、民心が離反してしまったからこそ蒋介石は天下を失った。民心の赴くところ歴史の必然あり――著者は孔子サマのようなゴ託宣を並べる。だが、勝利者はなんとでもいえる。やはり毛沢東が言い続けたように「政権は鉄砲から」しか生まれないという厳然たる事実を、この本は語る。 |