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愛国教育基地探訪(その8) ――今に残る文化大革命の傷跡は貴重な観光資源だ 秦皇島や承徳での盛大な結婚披露宴で満面笑みを浮かべている新郎・新婦の両親は、年格好からして50代後半から60代前半と見た。清東陵に造成中の霊園の墓石の住人のなかにも、同世代だっているはずだ。つまり彼らは、今では「大後退の10年」と批判される文化大革命によって中国全土が興奮と恐怖の坩堝と化していた時代に青春を送ったことになる。ついでにいえば、建国前後から毛沢東が産めよ増やせよと大号令を掛けた50年代前半に生まれた“中国版の団塊世代”であり、青春の一時期までは「毛沢東のよい子」になろうと日夜励んでいたはずだ。そして今は馬車馬。経済覇権超大国への道をまっしぐらだ。 ここで、時計の針を今から40年ほど昔に戻してみたい。 1966年8月18日、天安門広場には全国各地から集まった紅衛兵の熱気が渦を巻いていた。その数、100万人とも。やがて「赤い赤い太陽」「人類の魂の導き手」「偉大なる領袖」が天安門楼上に姿を現すや、赤い表紙の『毛主席語録』が打ち振られ、「毛主席万歳、万歳、万々歳」「万寿無疆」の熱狂は絶頂に達す。毛沢東による最初の紅衛兵接見の幕開けだった。 毛沢東の隣に侍る林彪が、やおらマイクの前に進み出て旧思想、旧文化、旧風俗、旧習慣を「四旧」と呼び、「四旧打破」こそが文革の目的だと獅子吼する。当時、毛沢東と林彪とは一心同体で林のことばは毛の考え(だったはず)。かくて大挙して街頭に繰り出した紅衛兵は四旧打破に血道を挙げ、いや青春の熱き血を滾らせた。北京では天下の名園で知られる頣和園、山東省では曲阜の孔子廟などを破壊し、毛沢東の政敵と思しき政治家・学者・芸術家などの家に問答無用と押し入り徹底して家捜し。難癖をつけ屁理屈をこね回しては四旧を摘発し、貴重な書画骨董を強奪し焼却した。傍若無人の極み、というもの。 天安門で第1回紅衛兵接見が行われた翌(19)日は、チベット暦で1966年第9月第13日。この日、チベットにも紅衛兵が出現し四旧打破の絶叫が「雪の国」を震撼させる。ラサから40キロほど離れたチベット僧院中最大のガンデンに、中国本土からの加勢組を加えた紅衛兵が押し寄せた。ツルハシ、ダイナマイト、大砲、空からの爆撃によってガンデンは木っ端微塵に破壊されてしまったのだ。チベットが、この惨状である。ならば全国各地は推して知るべし。当時、7000点ほどの重要文化財のうち5000点前後は破壊されたとか。 ここで現代に立ち返る。清東陵の霊園に林立する黒御影の無数の墓石に“新しい中国”を実感した足で、小雨のなかを西太后陵に向かった。さすがに黄昏の清朝を支えただけのことはある。隣の乾隆帝陵に較べれば規模は小さいものの、それなりに壮麗な構えだ。だが、そんなことはどうでもいい。彼女の陵を囲うベンガラ色の豪壮な塀に一種の感動のようなものを覚えたのだ。近くで見ると塗りムラにも思えるが、遠く離れてみると大きな文字が薄っすらと浮き出てくる。正面入り口を挟んで、左に「全世界の無産階級よ団結せよ」。右に「毛沢東思想の偉大な紅旗を高く掲げよ」。完全には消せなかったのか。真面目に消そうとしなかったのか。それとも文革に玩ばれた紅衛兵の怨念が浮き出てきたのか・・・。 今や好々爺一歩手前の紅衛兵世代は全土に残る文革の痕跡に何を思うだろう。あの滑稽なまでに悲惨な歴史的愚行の傷跡も見方を変えれば貴重な観光資源だ。ならば世界遺産に登録せよ。もっとも遺産というより悲惨というべきだろうが・・・。 (この項、続く) |