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愛国教育基地探訪(その7) ――旧い思想・文化・風俗・習慣・・・「四旧」完全復活の現場より 一昨年は延安や重慶、昨年は湖南でも経験したが、4月と5月の交という時期の中国は結婚式シーズンである。今回もまた各地で結婚式に出くわす。聞けば、この辺りの新婚旅行の定番は上海への買い物。だが、最近では海外旅行も珍しくなくなったという。ド派手な飾り付けをした高級セダンを何台も連ね、新婚サマご一行が誇らしげに行き交う。 秦皇島で昼食に立ち寄ったレストランでは、いましも披露宴の真っ盛り。「酒逢知己千杯少 難得糊塗共斉酔(知己に逢ったらトコトン呑んで、みんなで一緒に酔い潰れ)」とはいうが、他の客などお構いなし。吃光(食べ尽くし)・喝光(呑み尽くし)・説光(しゃべり尽くす)の“三光状態”。やがて宴も終り、客が去った後はテーブルの上は食べ散らかした料理や空瓶の山。食べ滓は床に散らかり放題。食べ残しが多いほどに大歓待を意味するわけだから、残飯はいや増しに増す。モッタイナは別世界の話。だが、さっきまでのド派手な衣装から普段着に着替えた新郎・新婦や親族が空瓶を数え、残った瓶を段ボールに詰め込んで持ち帰る姿には生活臭が現れていて、何ともイジマしく微笑ましい限りだ。 承徳のホテルで披露宴を冷やかす。盛り上がる会場入り口で、受付がご祝儀の勘定中。聞くと、ご祝儀の相場は300元から500元。最近では1000元も珍しくなくなったとのこと。500元といえば、唐山のマクドナルド店の皿洗いの1ヶ月分の基本給に近い。この金額が多いか少ないかは判らないが、確かに結婚式は極端に豪華になった。毛沢東の時代は、こざっぱりした姿の新郎・新婦が家のど真ん中に鎮座まします毛沢東の写真に向かって報告、それから双方の両親に挨拶した後に自宅でささやかな祝宴。これで終わり。 文革では結婚式と共に廃止された葬式も派手に復活。昨年、湖南省では何回か葬式に出くわし、アカの他人の遺影に焼香させてもらう幸運(?)に恵まれた。普通の庶民でも葬儀は1週間。その間、喪主は仕事を休み棺や遺骨を守り続ける。喪主の辛さを和らげようと、仲間が集まり遺影を横にしての徹夜マージャン。街頭に設けられた祭壇は赤、青、黄、緑などド派手な色に包まれ、大型アンプからは四六時中、ボリュームいっぱいに悲しみの曲が流される。それもこれも、死者への溢れ出る孝心であり追慕の情の発露というもの。 さて今年。北京の東北東120キロほどに位置する遵化郊外の清東陵を訪れた。清朝では歴代皇帝や王妃を東西の陵に分けて葬ったが、東陵で永遠の眠りに就いているは乾隆帝、皇后、そして多くの側室や西太后である。西太后陵の隣では、庶民向けの霊園造成が大々的に進んでいた。高さ1メートルほどの黒御影の墓石が、目を凝らせば遥か遠くまで整然と並ぶ。数百は軽く超えると思われる。中国では墓は個人単位。何々家ではなく誰々の墓。そのどれもが赤、緑、黄などの直径30センチほどのリボンで飾られている。幸運(?)にも、納骨シーンに出くわす。土中に埋めた40センチ四方ほどのコンクリート製の箱に長方形の骨箱を納め、黒御影石で蓋をする。数日後には墓苑を守る御堂の開基法要があると誘われる。残念ながら時間がない。聞くと墓地は1区画が1万元から10万元。 ここは皇帝墳墓の地。風水からして極上このうえなし。ならば、極上風水の地に葬られたい、葬ってやりたい――こんな庶民の素朴な願いを、経済成長が叶えてしまった。近い将来、清東陵は庶民の黒御影の墓石で埋まってしまいかねない勢いだ。(この項、続く) |