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愛国教育基地探訪(その4) ――誰もが先を競って「走出去」 太陽が見えないほどに早朝から空気が汚い唐山だが、朝の街を散策。すると街頭でビラ配りの女性を見かける。マンションの販売広告かと受け取ってみると、A4版大のビラの片面上部に、大きく「加拿大(カナダ)移民」。次いで「カナダ移民局前局長、有名移民問題専門弁護士、カナダ最大の銀行投資顧問、14年の経験を持つ移民問題専門家が懇切対応」と。さらに「お宅に参上。唐山にて移民関連手続き全て完了。出国後のトラブル一切無用。貴重な時間を節約。オーストラリア移民も受付中」。裏面はオーストラリア留学についての代行事務広告。「シドニー大学、メルボルン大学などのオーストラリア一流名門大学成功率100%」の文字が躍る。「前アデレイド州学生ビザ処理センター幹部職員、有名留学事務専門弁護士、留学事務経験14年専門家」が担当。「ご自宅参上。留学不成功なら経費全額返済」。「AMJ澳美加国際咨詢集団」なる企業の宣伝ビラだった。 いったい、この種の移民・留学関連企業が唐山に何社ほど存在しているのかは不明だが、街のそこここで「移民」「留学」と書かれたカンバンを見かけたところからして、少なくはないらしい。需給関係が経済の原則だから、それだけ需要があるに違いない。 2002年だっただろうか。当時、権力の絶頂期に在った江沢民は国民に向かって全球化(グローバル)時代だ。外の世界に向かって「走出去(とびだせ)」と大号令をかけた。だが庶民の立場からいえば、そんなことは先刻承知。78年12月に共産党政権が改革・開放に踏み切るや、大金と命を懸けて海外に飛び出していった。もっとも、その大部分は非合法だったが・・・。かくて江沢民の大号令は卓見でも大英断でも超野心的な政策でもなんでもなく、78年以来横行している非合法行為を追認、いや政府公認としたに過ぎないということになる。だが、政府公認が大問題。政府公認だからこそ、大手を振って「走出去」。 歴史的にいうなら、漢民族は民族発祥の地と確信している「中原」の2文字で表される黄河中流域の黄土高原から、外に向かい新しい生活空間を求めて移動⇒定着⇒再移動⇒再定着を長い年月を掛けて何度となく繰り返してきた。18世紀末になると中国本土には「空き地」がなくなってしまったことから、東南アジアや北米に「走出去」。かくて華僑誕生だ。 確かに毛沢東の政治は問題だらけ。だが、49年の建国からの約30年間、彼らを中国大陸に封じ込めておいたという1点だけは掛け値なしで大いに評価すべきだと、声を大にしていいたい。一方、鄧小平は民族のDNAを知悉していた。改革・開放政策とは、じつは彼らを本来の姿に戻しただけなのだ。その結果、いまや世界各地に溢れ出た中国人は、数にモノをいわせて自分たちの生活スタイルを押し通そうとする。異文化理解などクソ食らえ。郷に入らば郷に従えではない。郷を従わせろ、である。身勝手が過ぎる。彼らによる傍若無人な振る舞いに辟易としている世界中の人々は、彼らを国境の外に出そうとはしなかった毛沢東の世界史的で地球規模の“大英断”に、いまこそ感謝すべきだ。ゼッタイに。 夜、ホテル内の足療(足マッサージ)に行く。丁寧に足療を施してくれる娘さんに「いま、一番の希望は」。「この国を出て、シンガポールかマレーシアに移り住みたい」。翌日、唐山から秦皇島への道すがら、「看護師になって世界に飛び出せ」の巨大なカンバンを目にする。かくて「走出去」は止むことなく、次々と世界に飛び出してゆく。(この項、続く) |