【知道中国 240回】〇九・五・仲五
愛国教育基地探訪(その2)

 
「日本人からだけは、シナといわれたくない」__
   愛国教育基地探訪(その2)
 
-「日本人からだけは、シナといわれたくない」

 さすがに天津は早くから海外に開かれた港湾都市だけのことはある。戦前の地図には市街中心を貫いて流れる海河の右岸に沿って上流から日本、フランス、イギリス、旧ドイツ、対岸には同じく上流から旧オーストリア、イタリア、旧ロシア、旧ベルギーなどの租界が記されている。かくして旧市街には各国の銀行、商社、教会のみならず、清末の清朝高官や軍閥の邸宅、さらには旧満州国領事館、北京の紫禁城から追い出された溥儀が逼塞の日々を送りつつ満州の地に清朝再興の儚い夢を育んだ静園など――堅固・華麗・豪壮な石造りの建物が数多く残り、往時の繁栄を偲ぶことができる。

だが、そのことごとくが、かつては国を挙げて否定して止まなかった帝国主義列強侵略の残滓であり封建軍閥による人民搾取の象徴だったはず。かりに天津の紅衛兵が精鋭無比で毛沢東思想を忠実に実践し、毛の煽動のままに猪突猛進。これらの施設を徹底しで破壊していたら、おそらく天津旧市街は外国人観光客からは見向きもされない潤いのない殺風景な街並みになっていたはず。であればこそ、いまとなっては貴重な外貨獲得観光資源だ。

 天津市街を離れ、昭和8年1月に始まった熱河作戦の過程で関東軍と国民政府側軍委員会との間で塘沽(停戦)協定が結ばれた会場に向かった。黒い煉瓦造りの堅牢な建物はいまや廃墟。窓ガラスは割れたまま。内部を覗き込むとガラクタの山。外壁には、都市再開発のための取り壊しを意味する「折」の字を丸で囲った赤い略号が殴り書きされている。ここなんぞ、まさに民族にとって”屈辱の象徴”のはず。ならば保存しておいてしかるべきだろうが、いまや無用の長物と化している。誰も都市再開発には刃向かえないようだ。かつて「百戦百勝」は毛沢東思想。いまやそれは都市再開発や外国人観光客誘致に取って代わられてしまった。ゼニ儲けには誰も逆らえないのだ。いやはや彼ら民族の一大特長である無原則という大原則は、ここでも如何なく発揮されている。

 大原則を守ろうとする律儀者はどこにでもいるらしい。天津を案内してくれたガイドが別れ際に、「日本人からだけはバカにされたくない。シナといわれたくない」と一言。やはり日本人だから気に入らない、ということだろう。その瞬間、かの林語堂の『中国=文化と思想』(講談社学術文庫)の一節を思い出す。暇潰しの名人である中国人からするなら、日本人を罵倒することは、「蟹を食べ、お茶を飲み、名泉の水を味わい・・・」と同じく暇潰しの一種だったのだ。彼の一言もまた、暇潰しという大原則に違いない。

 天津から唐山へは北京と沈陽(瀋陽。旧奉天)を結ぶ京沈高速を走る。片側3車線の高速道路は、どこまでも真っ直ぐ。道路の両側に緑地帯が続き、その先は果てしない農地だ。

中国最初の高速道路は80年代後半に広東省の広州と深圳とを結んで建設されているが、路面は波打ち貧弱な舗装で素人目にも危険極まりなく思えたもの。それに較べると京沈高速は格段にリッパにみえる。20数年の時の流れは建設技術を格段に進歩させたということだろうが、あるいは昨年のオリンピックも影響しているのかもしれない。そういえば天津のタクシーは例外なくトヨタの新車。聞けばオリンピックを期しての政府資金援助で新車に交換したとか。聖火リレーのみならず多々問題の多かった北京オリンピックだが、それなりの効果はあったようだ。中国国内でも、もちろんトヨタにとっても。(この項、続く)