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『極秘 魔窟・大観園の解剖』(満洲国警務総局保安局 原書房 昭和57年) 「満洲国の存在を昂然と嘲笑侮蔑してゐるものに『傅家甸』FUCHIATIENの存在がある」の一行ではじまるこの本は、その昔、ハルピンの中国人街の傅家甸にあった大観園を舞台にした「殺人、売春、麻薬、婦女誘拐、人間・動物の死体売買といった恐るべき汚濁社会の赤裸な内部を克明に記録!」(この本の帯に記された紹介文)したものだ。 ともかくも、非日常の日常化などといった“甘っちょろい常套句”では表現しえない世界が、次から次へと登場する。しかもそれが、『三国志』や『水滸伝』、『聊斎志異』、はたまた京劇の舞台のような絵空事の世界ではなく、1941年前後のハルピン中国人居住地の一角で日々繰り返されていた紛うことなき現実というから驚くほかはない。 「此の世界に於いてはせつぱつまつた凄惨な挿話が無限に聞かされるであらう。それ等の夥しい驚異の前にはわれわれの可能の世界は一切が青褪めてしまひ、知性と徳性の無力を感じて慄然とする。街に氾濫する執拗な因襲、因襲はやる丈のことは何だつてやる。然も此の街は虚無主義的不感症に陥つてゐる」。 なにやら映画の予告編ようで隔靴掻痒の感は免れないだろうが、もう少し「序にかへて」を読み進んでみたい。なぜなら、この街に実際に足を踏み入れ、この本の原型である「漢民族社会実態調査 第一編 大観園の解剖」を書き上げた「満洲国警務総局保安局」の関係者が直接肌で感じ取った漢民族が放つ強烈な“生活臭”が感じられるからだ。 「漢民族、それは所有る物の一切を葬り去る土の如き存在である。而もそれは飽く迄も鈍重で執拗なる力に溢れてゐる。彼らは永久飢饉と一切の政治・動乱・理論、果ては道徳にすら散々に打ちのめされ、ぶち壊されながら、その何れもが彼らの存在を如何ともすることの出来なかった所の、心憎きまでに強靭に且つ民族的な存在である。・・・彼等は本能に導かるるままに自由に奔放に生き抜かんとする。然るが故に漢民族社会にはその最初から国策を無視して行く社会構成の悪戯があるのである。人間の意志を無視し、人間の正常なる努力を冷笑する人間の根強い本能のみが漢民族社会に於ける決定的な要素である。」 かくして「此の傅家甸こそは、最初から純然たる漢民族社会として発展し続けた社会である。われわれはこの傅家甸に於いて漢民族社会のありとあらゆる現象の圧縮された縮図を見ることが出来、ハルピンと云ふ民族都市に於ける人性の独特の悪どい呼吸が聴かされる」ことになるのだ。「序にかへて」は更に続ける。 「誠実に生き抜くためには傅家甸社会は余りにも邪悪に充ち満ちてゐる。人間と云ふ肉体を舞台にして現世的な欲望と狡智とが雑多な個性のヴエラエテイに彩られながら死闘を続けて居り、中にも大観園及びその付近に展開せらるる世界は、傅家甸社会のもつ極端な利己主義と低俗な物質主義と功利的な時代思潮と懐疑とにひしがれた、所有る混乱と矛盾との中に貧苦と憐憫と嫌悪と悲惨と汚穢とに満ちた痛烈無慙な姿である。此処に於いては人間の所有る理性は奪ひとられ、徳性は不幸なる麻痺を生じ、魂の啓示は忘却せられ・・・凡ては壊され、凡ては流され、そして又凡ては滅んで行く。」 なにはともあれ、この本を読み終わった時、中国と中国人に対する考えは一変しているに違いない。「信不信由你(信じる信じないは、あなた次第)」ということデス・・・が。
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