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この本は、そんな康が長い歳月を掛けて書き上げたものだが、現在の中国の学界では、一般的に「この本は、主権独立国家から半植民地・半封建社会へと堕ち込んでゆく特殊な歴史の歩みの中で、伝統儒学と西欧近代の思潮とを結合させ格闘する著者の思考を反映したものである」(陳得媛・李伝印「《大同書》評介」)と評価されている。 清末の大学者たる著者は、いずれ将来、人類は民族・国家・性別・貧富・職業などの違いを超越し、心穏やかで対立も苦しみも痛みもない快適至極の極楽のようなユートピアに立ち至る――なんとも夢のような、見方によったらノー天気なゴ託宣を語ってくれる。 まあ、じつに有り難く夢のようなゴ高説だが、どうすれば実現可能なのか。はたまた「伝統儒学と西欧近代の思潮とを結合させ格闘する著者の思考を反映したものである」とまで持ち上げていいものかどうか。首を傾げたくなる。率直にいわせてもらえば学者の“暇つぶし”。とはいうものの、この本を儒教的ユートピア世界を描き出したものと見做すなら、それはそれで儒教に対する考えも“衝撃的”に変わろうというものだ。 たとえば「去家界為天民」と書かれた一章では、「家界」というから家族の縛りとでも訳せばいいのだろうか。いずれ人は家界を抜け出て「天民」になると説く。この章の最終部分の「考終院」の項をみると、未来社会では死もまた平等に公的管理されるようだ。人は死んだら考終院という役所に届け、遺体は帛で包むなり棺に納めるなりして考終院に安置する。考終院にはお別れのための一切の設備が整えてあり、葬儀の次第は死者の社会的地位や年齢によって事細かに規定されている。ここで興味深いのが死体処理方法だ。 孔子の弟子であることを自任する著者は孔子の考えに従って、「人の生気」は「魂知」に在り「体魄骨肉(にくたい)の中には在らず」とする。だから遺体は土葬でも火葬でもかまわないのだが、さすがに火葬は残酷で見るに忍びないと綴る。とはいうものの一転して、将来のハイテク科学技術を思い描く。千数百年後の「大同の世」になったらハイテク装置が完成する。それが熱風を起こしゴーッと唸りをあげた途端、「形骸骨肉(にくたい)」は消えてなくなってしまう。かくて「上(こころ)」は虚無の世界に還り、「下(いはい)」は山や谷に撒かれ時の流れの中で消えて行く、という。よくまあ、そこまで考えるものだ。 康が心血を注いで著した『大同書』と聞くと、さぞや難解な本のようだが、儒教的ユートピアを描いた“謹厳実直な未来小説”といったところ。ともあれユートピアでも死体処理に目配りが必要なほど、中国は膨大な人口に悩まされ続ける運命にあるのです。
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