【知道中国 222回】〇九・三・十
紅色漩渦
 ―「解放」は悲惨を招き寄せ、「革命」は悔恨と共に無惨に砕け散る
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          『紅色漩渦』(余良 明鏡出版社 2006年)

 著者の生まれは広東省の片田舎で中華人民共和国建国時は2歳だった。養母と2人の貧しくも心豊かな日々は、58年の大躍進で終わりを迎える。毛沢東による現実無視の苛政が原因で生活は困窮するばかり。義母は泣く泣く著者をプノンペンに住む両親の許に送った。

 異境で必ずしも安穏とはいえない日々を必死に生きる両親からすれば、食い扶持が1人増えるだけでも家計は逼迫する。そのうえ毛沢東思想で育った息子は万事につけ親に反抗的だ。家庭に温もりは消えた。後に戦乱の渦中で知るのだが、伯母さんと呼んでいた南ヴェトナム在住の華人女性こそが実母だった。著者は中国、カンボジア、南ヴェトナムの3カ国に跨る複雑な家庭環境に生きる。これまた一所不住を常とする華人の宿命だろう。

 殺伐とした家庭に嫌気がさした彼は13歳で家出し自活の道を選ぶ。工場勤務の傍ら、「華運」の活動にのめり込んで行く。華運とは、「華人を組織し現地人民の反米救国闘争を支持し、毛沢東思想を宣伝し祖国の社会主義革命と建設を支援する」ことを目的に、中国共産党がカンボジアからヴェトナムに連なる華人社会に張り巡らせた革命地下組織だそうだ。

 親米反共のロン・ノル政権時代の70年代前半、著者は華運同志と共に反米救国・民族解放の闘争に身も心も捧げ尽くす。辛い農作業に積極的に参加したのも、身につけていた漢方医療技術で貧しい人々の命を懸命に救ったのも、全て「現地人民の反米救国闘争を支持し、毛沢東思想を宣伝し祖国の社会主義革命と建設を支援する」ため。毛沢東思想を宣伝しインドシナに根付かせることは、“毛沢東の良い子”が担う光栄ある大義。毛沢東はインドシナも我が版図と考えていたようにも思える。ロン・ノル政権崩壊後にポル・ポト政権が登場するや、カンボジアはキリング・フィールドへと激変し、華運の命運も尽きる。

 矯激な民族主義を掲げるポル・ポト政権は中国共産党から物心両面の強力な支援を受けるも、カンボジア農民を搾取し続けたとして華人を仇敵視した。中国共産党の影響下にある革命地下組織とはいうものの、所詮は華運も華人だ。ポル・ポト政権は容赦しない。華運同志の多くは死地に送り込まれ、飢餓の果てに憤死・窮死、さもなくば惨殺。ポル・ポト政権からの華人の中国送還という申し出を、毛沢東は「カンボジア革命に使ってくれ」と断った。その時、「カンボジア華人の将来は絶たれた」と、著者は苦々しげに回想する。

 自らの過酷な運命に絶望した彼らにとって、ヴェトナム軍によるポル・ポト政権打倒の戦争は、なによりの福音だった。命からがら南ヴェトナムの実母の許に逃げ延びた著者は戦乱のなかをプノンペンにとって返す。イザという時のために義父母が便所の壁に埋め込んでおいたカネを手に、大混乱のカンボジアを西に逃れタイの難民収容所を経てアメリカへ。20数年が過ぎ、ポル・ポト勢力が一掃され落ち着きを取り戻したカンボジアを訪れた著者は、かつて自らが青春を熱く捧げた革命根拠地があった密林に立つ。そこで、民族解放・反米救国・革命闘争の残骸を目にする。青春の大義は蜃気楼に近く、往時は茫々たり。

 ところで、かつてポル・ポト派の野蛮行為の1つとして都市の商店や住宅の壁の破壊が挙げられたことがあったが、それは華人の隠し財産探索のため。社会主義政権下で生き抜いた何人かのラオス華人からも、壁に隠した財産を小出しに使って生き延びたと聞いたことがある。戦乱・混乱を生き抜いてきた華人の危機管理の一端を、ご承知アレ。