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1840年に勃発したアヘン戦争に勝利した結果、42年に清朝と結んだ南京条約によって英国は当初の狙い通りに香港島を獲得。かくて香港は初めて世界史に名前を記すことになるが、この時まで、清朝当局者は香港がどこにあるのか知らなかったといわれる。だが、この小島は、その後の中国の歴史に大きな影響を与え続けることとなる。 欧米諸国の対中貿易の一大拠点に変貌し、頑迷固陋な清朝帝国に西洋の新しい思潮を吹き込む窓口となり、反清朝勢力の出撃基地と化し清朝を脅かし、中国労働運動の揺籃の地となり中央政府を震撼させ、人民共和国成立ともに共産党と反共産党の内外両勢力の角逐・謀略の舞台となり、ホンコン・フラワーや香港情報ということばで象徴されるニセモノ天国として世界に名を馳せ、李嘉誠のような超巨大財閥を生み出すほどの不動産ビジネスの宝の山に変身し、返還直前には金の卵を産む鶏と内外から持て囃され、1997年に「一国両制」の下で「中国回帰」を遂げた後も、大陸からのヒトと内外からのカネを呑み込みながら金融センターとして世界と中国との“結び目役”を果たし続けようと模索する―― このように変貌を繰り返す香港にありながら、英国、第二次大戦中の日本、戦後の英国、そして北京と主権者が変わろうと、この街の政治・経済・社会・文化に隠然たる影響力を発揮し続けているのが、欧中混血がルーツの「香港の貴族」だ。この本は、その象徴的存在としての何(ホー)と羅(ロー)の両家の歴史と現状から、彼らの実態を解き明かす。 19世紀半ば以降、南中国沿海の名もなき小島が英国の東洋経営の基地に改造され中欧貿易の拠点となるや、一攫千金の夢を抱いた若者が欧州から押し寄せる。彼らと中国人女性の間に生まれた欧中混血児は学校では欧州式教育を施され、家庭では母親から中国のことばと躾を受ける。彼らは生まれながらにして英国人、ユダヤ人、ポルトガル人、ペルシャ人であり中国人なのだ。だが彼らの祖国は、そこにはない。飽くまでも“祖国”は香港。 やがて優秀な子供たちは父親の母国に送られ高等教育を受け、弁護士資格などをえて欧州紳士として香港に戻り、赤子の時から身についたバイリンガルと欧中双方の文化と知識と人脈を武器に欧州商社の代理商となり、香港経由の貿易の実権を握りながら、膨大な資産形成に成功する。資産形成の哲学は「地産致富(不動産は富を生む)」「同居公財(大家族で一緒に暮らし一括管理してこそ財産は無限の力を発揮する)」――典型的な中華商法だ。 英国人が父で現在の深圳に当たる宝安県生まれの中国人女性が母。1862年に香港で生まれた何東(サー・ロバート・ホートン)こそ、香港の貴族の鼻祖である。香港島商業地区の一等地を次々に手に入れ、海運、貿易、保険、紡織、電車と事業を拡大し、やがて植民地経済の根幹を押さえる。英国総督も日本軍司令官も、彼らの意向を無視しては円滑な香港経営は難しかった。彼らは一夫多妻で子沢山。一族資産を管理する者、国民党中枢や植民地政府で働く者、欧米でビジネスをはじめる者、海外で学者や医者になる者と、第二世代以降は多士済々。貴族は貴族と結婚し、貴族の輪が広がり、資産が資産を生んで行く。 香港の土地も経済も、香港島の高台に構えた豪邸で優雅に暮らす彼らの手の中。であればこそ、彼らは貴族としての生活を満喫しながら日々を送る。これが中華人民共和国特別行政区の一面の姿・・・彼ら貴族なくして香港はない。おそらく、これからも。 |