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『江南春』(青木正児 平凡社 昭和47年) 京都帝国大学で「支那学」を修めた著者が江南の旅に向かった大正11年は、中国共産党が上海フランス租界で設立された1921年の翌年に当たる。23年には湖南省の長沙で学生による排日運動が発生し日本海軍陸戦隊が派遣され、24年に合作した国共両党は26年に軍閥打倒・全国統一を掲げて北伐を開始する――中国は激動のとば口に立っていた。そんな時代の雰囲気も知らぬ気に、風光明媚な西湖を振り出しに蘇州、南京、揚州と続く気儘旅。旅先での庶民とのやりとりを楽しみ、日常の裏側に潜む彼らの生存原理に思いを巡らす。 「上古北から南へ発展してきた漢族が、自衛のため自然の威力に対抗して持続して来た努力、即ち生の執着は現実的実効的の儒教思想となり、その抗すべからざるを知って服従した生の諦めは、虚無恬淡の老荘的思想となったのであろう。彼らの慾ぼけたかけ引き、ゆすり、それらはすべて『儒』禍である。諦めの良い恬淡さは『道』福である」と説くが、当時の著者の考えを忖度するに、あるいは、こういうことだったのではないか。 黄河中流域の中原と呼ばれる黄土高原で生まれた漢民族は、やがて東に向かい南に進んで自らの生存空間を拡大してきた。先住異民族と闘い、過酷な自然の脅威にさらされながらも生き抜く。こういった日々の暮らしの中から身につけた知恵の一方の柱が、何よりも団結と秩序を重んじる儒教思想だ。団結と秩序が自らを守り相互扶助を導く。だが獰猛無比な他民族、猛威を振るう自然、時代の激流を前にしては、団結も秩序も粉々に砕け散ってしまう。人間なんて、どう足掻こうが所詮は無力。そこで、もう一方の知恵の柱――なによりも諦めを説く老荘思想の出番だ。団結と秩序への盲従、つまり誰もが大勢に唯々諾々と迎合する情況を「『儒』禍」と、人の力ではどうにも動かしようのない自然や時の流れをそのまま受け入れることで自らを納得させる様を「『道』福」と呼んだのではなかろうか。 さらに著者によれば、「韮菜と蒜とは、利己主義にして楽天的な中国人の国民性を最もよく表わせる食物」となる。そこで、「己れこれを食えば香ばしくて旨くてたまらず、己れ食わずして人の食いたる側に居れば鼻もちならず。しかれども人の迷惑を気にしていてはこの美味は享楽し得られず。人より臭い息を吹きかけられても『没法子』(仕方がない)なり。されば人も食い我も食えば『彼此彼此』(お互い様)何の事もなくて済む、これこれを利己的妥協主義とは謂うなり」という辺りに落ち着くこととなる。また中国芸術を指して「まさに韮のようなものだ。一たびその味わいを滄服したならば何とも云い知らぬ妙味を覚える」とも説いている。(なお、原文では滄は「さんずい」ではなく「にすい」) 著者の考えを現実に当てはめ敷衍してみると、毛沢東思想万能時代の過激行動にしても改革・開放の時代の激越なカネ儲けにしても、率先垂範すれば「香ばしくて旨くてたまらず」「何とも云い知らぬ妙味を覚える」。調子よく立ち回っている人の「側に居れば鼻もちならず。しかれども人の迷惑を気にしていてはこの美味は享楽し得られず」。かくて誰もが我先にイケイケドンドン。他人は関係ない。これが「儒」禍。だが時代の敗者になったらなったで諦めるだけ。これ「道」福・・・なあに百年生きたって、たったの36,500日。 著者は、「儒」禍と「道」福に裏打ちされた利己的妥協主義に中国人の行動原理を見出す。それにしても彼らの民族性を韮や蒜で表すとは、絶妙・慧眼・至言・秀逸・・・敬服。 |